「だれでもわたしについて来たいと思うなら、
自分を捨て、日々自分の十字架を負い、
そしてわたしについて来なさい」
ルカの福音書9章23節
大工として
イエス・キリストは、30歳のときに家を出て、宣教活動を開始されます。
それまでの間イエス・キリストは、
母であるマリヤと父のヨセフのもとで仕えられるのです。
成人してからは、大工として家族を支えていました。
イスラエルは、木の文化ではなく、石の文化なので、
大工といっても取り扱うのはほとんど石ですから、
石工と言ったほうがいいかもしれません。
ですから、イエス・キリストは、
きっと筋骨隆々とした男性的な体つきをしていたと思います。
神の子であられた方が、両親に仕え、
人々に大工として仕えながら30歳になるまで、神の時を待たれたのです。
イエス・キリストは神の時が来るまで、
ご自分で行動を開始されることはなかったのです。
もし私たちなら、両親を見、人々を見、
暗い世の中や律法主義のはびこっている宗教界を見て、
がまんできずに、すぐに行動を開始してしまうのではないでしょうか。
でもイエス・キリストは、
黙って自分の置かれた場所で、
神の時が来るまで待たれたのです。
毎日、毎日、神が置かれた場所で、同じようなくり返しの日々を送りながら…。神の御子であられた方が待たれたのです。
このとき、イエス・キリストは、
忍耐をもって、黙って静かに毎日の生活の中で、
十字架を負われていたのです。
私たちも神の時が来るまで、
主が置かれた場所で、
いま負うべき十字架を負っていきましょう。
それは目立たないかもしれません。
しかし神さまは、あなたをご覧になって、主の時を用意しておられるのです。
その時まで、静かに感謝しながら、忍耐をもって、
その場所で十字架を負っていきましょう。
イエス・キリストは言われました。
「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、
日々自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい」(ルカ9章23節)
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