2016年11月19日土曜日

11月19日(土) さまざまな裏切り④




ある青年が、

素はだに亜麻布を一枚まとったままで、

イエスについて行ったところ、

人々は彼を捕らえようとした。




マルコの福音書14章51節



はだかで逃げた青年


イエス・キリストが捕えられたとき、

みんなは、

イエス・キリストを見捨てて、

逃げていきます。



ところが一人だけ、

ある青年が、

素はだに亜麻布を一枚まとったままで、

イエス・キリストについて行きました。



どうしてかは、本当のところは、わかりません。

けれども、とにかくイエス・キリストのあとを、

ついて行かずにはおられなかったのでしょう。

イエス・キリストのことが気になって、

そっと、イエス・キリストのあとから、ついて行ったのでしょう。



ところが、せっかく彼がそっとイエスのあとからついて行ったのに、

人々は目ざとく彼を見つけて、

彼がイエスの弟子たちだとわかると捕えられようとしたのです。



その途端、彼は亜麻布を脱ぎ捨てて、はだかで逃げたのです。



彼は、もう必死で逃げました。

こわかったのでしょう。

捕まりたくなかったのです。



亜麻布は、とても上質な布で、高価なものでした。

しかし、それを脱ぎ捨ててまでも

彼はとにかく逃げました。

はだかになって逃げました。

恥ずかしいという思いよりも、

捕えられる恐怖のほうが大きかったのです。



彼は、もうイエス・キリストのことは、どこかに飛んでいたのです。

いえ、心にはありました。

でも自分が捕まることのほうが、

イエス・キリストのことよりも大きな問題だったのです。

もうこれ以上は、イエス・キリストには、ついて行けなかったのです。



この青年が誰だったのかは、はっきりとは分かっていません。

ただ、このことが書かれているマルコの福音書の著者である

マルコ・ヨハネではないかと言われています。



もしそうだとしたら、

マルコは、この記事をどんな思いで書いたのでしょうか。

福音書の中で、マルコだけが、このことを記しています。

マルコにとって、これは忘れられないことだったのでしょう。

彼にとって、このことは、

自分はイエス・キリストを裏切ってしまったという

痛い思い出だったはずです。



しかし同時に、

彼はその中で、

十字架を通して注がれる神の赦しと愛の深さ、広さを知ったのでしょう。

だからこそ、彼はこのことを、わざわざ書き記したのです。

もしかしたら、

これを書きながら、彼は泣いていたかもしれません。

自分の罪と弱さを思い出しながら、それにもまさる愛を思い起こして。



私たちも裏切った弟子たちのように、

イエス・キリストに選ばれ、召され全てを捨ててついて行きながら、

失敗しやすいものです。



しかし、ペテロがその40日後のペンテコステの日に、

説教者として用いられ、

三千人の人が救われたように、

主は憐れみをもって、

悔い改め、主を待ち望む者に

力を与えてくださることを覚えていましょう。



そして、ユダの道ではなく、ペテロの道を行きましょう。



そのとき、マルコ・ヨハネのように、

主は憐れみをもって用いてくださるのです。

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