2016年10月31日月曜日




まことに、あなたがたに告げます。

世界中のどこででも、この福音が宣べ伝えられる所なら、

この人のした事も語られて、

この人の記念となるでしょう。




マタイの福音書26章13節



この時にすべきこと



最後に、

イエス・キリストは、

決して貧しい人々への施しを、

否定されたのではありませんでした。



むしろ、

イエス・キリストは、

いつも貧しい人々のあいだを歩かれ、

生活を共にされたのです。



 しかし、

このときは、

まさにイエス・キリストが

十字架にかかられる直前に来ていました。



貧しい人々には、

本当に施したい思うなら、

いつでも出来ます。



 しかし、

イエス・キリストは、

このとき死を目前にしておられました。



 イエス・キリストに対して愛と献身を示すには、

この時をおいて他にないという時が確かにあるのです。 



この女の人は、その時と機会を直感的に知っていました。

その時を見抜き、その機会をとらえたのです。



なぜ、彼女には、それが出来たのでしょう。 



この女の人が、主を真に愛していたからでした。

人からみたら「むだ」と思えるようなことも、

イエス・キリストに対しては

惜しみなくすることが出来る愛が、あふれていたのです。



 人にはむだなこと、

大きな犠牲と思えることも、

この人にとっては、価値のあることだったのです。



決して犠牲とは思わなかったのでしょう。 



私たちも、

主イエスに対して

愛と献身を示す時というのがあります。



この世の価値観や人間的な判断によって、

主の時を、見失わないようにしましょう。 



貧しい人は、いつもいます。

しかし、

この時でなければならない主の時というのが、

確かにあるのです。



あなたも主が呼んでいる


そして、今、

これを読まれているあなたにも、

主イエスが呼びかけをしておられるのではないでしょうか。



終末のリバイバルの時が始まってきています。



今こそ、あなたの愛と献身を示す時ではないでしょうか。



主イエスに、あなたの出来る心からの愛を示しましょう。

イエス・キリストに、あなたの真実な愛を捧げましょう。

主イエス・キリストは、

必ずあなたの献身に愛と真実を持って応え、

大いなる祝福を返してくださいます。

2016年10月30日日曜日

10月30日(日) ナルドの香油⑤




まことに、あなたがたに告げます。

世界中のどこででも、福音が宣べ伝えられる所なら、

この人のした事も語られて、

この人の記念となるでしょう。




マルコの福音書14章9節



私たちも愛に生きる



イエス・キリストは

「世界中どこででも、

福音が宣べ伝えられる所なら、  

この人のした事は語られて、この人の記念となるでしょう。」

と言われました。



今、このイエス・キリストのことばは成就しています。

聖書に記されたこの記事は、世界中で、語り続けられているのです。



私たちは、

知らないあいだに、

日々の生活の中で、

効率ばかりを考えて生きていないでしょうか。



イエス・キリストへの愛と献身というよりも、

弟子たちと同じように、

目の前の損得や、

この世の価値観や人間的な判断の中に、

気づかないうちに、

はまってしまっていないでしょうか。



私たちが真に主を愛し、

イエス・キリストへの愛の中に生きようとするとき、

今でも弟子たちのように、

私たちを責める人々はいるかもしれません。



しかし、

イエス・キリストは、

私たちの愛を、

決して軽んじたり馬鹿にしたりはなさらないのです。



あなたに出来るその愛を、

主イエス・キリストに示すとき、

主は喜んで、

それを受け取り、

私たちが思うよりも

はるかに偉大なことを

成してくださる方なのです。

2016年10月29日土曜日

10月29日(土) ナルドの香油④




そのままにしておきなさい。  

なぜこの人を困らせるのですか。  

わたしのために、りっぱなことをしてくれたのです。       

・・・・・中略・・・・・  

この女は自分にできることをしたのです。  

埋葬の用意にと、  

わたしのからだに、前もって油を塗ってくれたのです。




マルコの福音書14章6・8節



自分に出来る事をしただけで



弟子たちの言葉を聞くと、イエスはすぐに言われました。



「そのままにしておきなさい。  

なぜこの人を困らせるのですか。  わたしのために、りっぱなことをしてくれたのです。  

貧しい人たちは、いつもあなたがたといっしょにいます。  

それであなたがたのしたいときは、いつでも彼らに良いことをしてやれます。  

しかし、わたしは、いつもあなたがたといっしょにいるわけではありません。  

この女は自分にできることをしたのです。  

埋葬の用意にと、わたしのからだに、前もって油を塗ってくれたのです。  

まことにあなたがたに告げます。  

世界中のどこででも、福音が 宣べ伝えられる所なら、  

この人のした事も語られて、この人の記念となるでしょう。」



イエス・キリストは、

この女をきびしく責めていた弟子たちをたしなめられて

「この人はわたしのためにりっぱなことをしてくれたのです。」

と言われました。


実は、イエス・キリストが十字架にかかる時が近づいていたのです。

もちろん、弟子たちも、この女の人も、そんなことは知りませんでした。



しかし、イエス・キリストは知っておられました。



ですから

「わたしはいつもあなたがたといっしょにいるわけではありません」

と言われたのです。



しかも、イエス・キリストは、こう言われています。



「埋葬の用意にと、わたしのからだに、前もって油を塗ってくれたのです。」



はっきりと、イエス・キリストは、十字架を見据えておられました。

もう間もなく、わたしは十字架にかかり死を選ばなければならない。

その前に、この女の人は、わたしに油を塗ってくれたのだ。

イエス・キリストは、そう言われたのです。



というのも、ユダヤ人たちは死体を埋葬する時、油を塗ったからです。



おそらく、この女の人は、そんなことは全く考えていなかったでしょう。

イエス・キリストが十字架にかかることも、

その前に油を塗ることになったことも、

この人には、全く及びもつかないことだったでしょう。

しかし、

この人が自分にできることを

イエス・キリストにしたときに、

彼女の出来る最高の愛を、

主に捧げたときに、

なんと、十字架のための備えの油注ぎとなったのです。



この人が考えたのではありませんでした。



しかし、

イエス・キリストへの真実な愛は、

どんな計算や効率よりも、

もっと大いなることを成すのです。

2016年10月28日金曜日

10月28日(金) ナルドの香油③







すると、何人かの者が憤慨して互いに言った。

「何のために、香油をこんなにむだにしたのか。  

この香油なら、三百デナリ以上に売れて、  貧しい人たちに施しができたのに。」

そうして、この女をきびしく責めた。




マルコの福音書14章4・5節



愛は計算や効率を越える



ところが、弟子たちの何人かは、これを見て憤慨して言いました。



「何のために、香油をこんなにむだにしたのか。  

この香油なら、300デナリ以上に売れて、貧乏な人たちに施しができたのに。」



そう言って、この女の人をきびしく責めたのです。

確かに弟子たちの言うことは妥当なことに思えます。

と言うのも貧しい人に施しをすることは、 ユダヤ人にとっては重要な奉仕であったからです。



この女の人のつぼの中には、 300デナリ以上に売れるだけの香油が入っていました。

当時、普通の労働者の1日の賃金は、1デナリでした。

ですから、300デナリというのは、 普通の労働者の300日分の給料に匹敵します。

たったひとりの人に、一瞬に香油を注いでしまうより、

この香油を売って、多くの貧しい人を助けるほうが、

はるかに効率が良いではないか。

弟子たちは、そう思ったのでしょう。



なるほど、普通に考えれば弟子たちの言うことは妥当に思えます。

しかし、弟子たちは一番大切なものを見落としていました。



それは、イエス・キリストへの、この女の人への愛でした。



愛は効率や計算では動かないのです。

そして愛は、人の計算や効率を超えて、はるかに大きなことを成すのです。



この女の人にとっては、

イエス・キリストに、

今までの人生を注ぎ出すことも、

300デナリになる香油を一瞬にして失うことも、

全く惜しくなかったのです。



この女は計算や打算で動いたのではありませんでした。

イエス・キリストへの愛が、この女を動かしたのです。

本当の愛は計算しないのです。


2016年10月27日木曜日

10月27日(木) ナルドの香油②




イエスがベタニヤで、

ツァラアトに冒された人シモンの家におられたとき、

食卓に着いておられると、

ひとりの女が、純粋で、非常に高価なナルド油の入った石膏のつぼを持って来て、

そのつぼを割り、イエスの頭に注いだ。




マルコの福音書14章3節



惜しみなく注がれた香油



その時、突然一人の女性が

イエス・キリストに近づいてきました。



彼女は、その手に、

純粋で非常に高価なナルド油のはいった石膏のつぼを持っていました。



彼女はイエスに近づき、

そのつぼを割り、

イエス・キリストの頭の上に注いだのです。



この純粋なナルド油というのは、

ヒマラヤ原産のナルドという植物の根茎から取った香料による香油で、

非常に高価なものでした。



当時、女性たちは、自分が得たお金をこんな風にして、

純粋で高価なナルド油に変えて、

つぼの中にためていたのです。



今ふうに言えば、結婚準備のための積立貯金のようなのでした。



しかし、

それは現代の貯金なんかよりも、

はるかに真剣なものだったようです。

少し大げさな言い方をすれば、

女性のそれまでの生命そのもの、生活そのものだったのです。



この女の人は、そのつぼを、イエス・キリストのために割ったのでした。

そして、この最高の香油を、イエス・キリストに注いだのです。



それは、単に心のこもったおもてなしという以上のものだったのです。



なぜなら、

このつぼの中にためられたナルドの香油は、

いつか結婚するときのために蓄えられた 彼女の生命そのものだったからです。

この人は、

イエス・キリストを愛するあまり、

今までの自分の人生そのものを、イエス・キリストに捧げたのでした。

大切に、大切に蓄えてきたものを、イエス・キリストに注ぎ出したのです。



イエス・キリストへの熱い思いと愛が、この人に、そうさせたのです。



それは誰から言われたのでもなく、

この人の心の底からあふれてきた主イエスへの愛が、そうさせた行動でした。

2016年10月26日水曜日

10月26日(水) ナルドの香油




さて、イエスがベタニヤで、

ツァラアトに冒された人シモンの家におられると、




マタイの福音書26章6節



エルサレムから3キロメートル離れたところに、ベタニヤと言う町があります。

このベタニヤには、

かつてイエス・キリストによって、

死からよみがえったラザロとその姉妹であるマルタとマリヤが住んでいました。



今回は、

そのベタニヤに住んでいた らい病人(ツァラアトに冒された人)のシモンの家で

起きたことを書きたいと思います。



らい病人の家に来られた主イエス



当時らい病人は、人々と共に住むことは出来ませんでした。

それどころか、

家族からさえも隔離されて

「らいの谷」というところに居なければならなかったのです。



なぜなら、

らい病というのは、

単なる病気というのではなく、

汚れた病気というふうに考えられていました。



すなわち、宗教的にも汚れており、神に呪われていると考えられていたのです。



それなのに、このシモンは、ベタニヤの町に住んでいることができたのです。

おそらく、もう、らい病が完全に直っていたのでしょう。



とはいえ、

かつて「らい」であったというだけでも人々は避けるはずですが、

イエス・キリストは避けるどころか、

その「らい」だったシモンの家に来られたのです。



人々が、神に呪われていると思っている人のところへ、

イエス・キリストは来られたのです。



そして、共に食卓につかれました。



その人の生活の、ただ中に来てくださったのです。



そこには、死の床からイエス・キリストによって、

よみがえらされ、復活の奇跡に預かったラザロも、

その姉妹のマリヤとマルタたちもいました。

2016年10月22日土曜日

10月22日(土) ラザロの復活⑤







そこでイエスは、

またも心のうちに憤りを覚えながら、墓に来られた。

墓はほら穴であって、石がそこに立てかけてあった。




ヨハネの福音書11章38節



再び主が来られる前に



主イエス・キリストの再臨が近づいている今、

主イエス・キリストは、

私たちを、マルタやマリヤのような取り扱いの中に置かれていることが、

きっとあると思います。



あなたにとってのラザロが何であれ、

主イエスは、

あなたを愛して、

あなたのところに、

必ず来てくださるのです。



ただ、彼女たちが

自分の願いと計画が破られ、裏切られたと思ったように、

あなたもあなたの願いや計画は崩されるかもしれません。

あなたの思う通りには、

主が答えてはくださらないこともあるでしょう。



しかし、

主イエスは、

あなたの思いを

はるかに超えるすばらしい神の栄光を

見せてくださるのです。



罪人である私たち人間が、

及びもつかないすばらしい神の栄光を

見せてくださるのです。



あなたのラザロに対する神の計画を、現わしてくださるのです。



そのことを覚えていてください。



主イエスは、不可能のないお方。



主イエスは、決して裏切らないお方だからです。


2016年10月21日金曜日

10/21(金)パソコン版 10月21日(金) ラザロの復活④







そして、そう言われると、大声で叫ばれた。

「ラザロよ。出てきなさい。」




ヨハネの福音書11章43節



はるかに高い神の愛と計画



私たちにも、

主イエスを信じて期待して待ち望んでいたのに、

答えてくださらなかったという経験があるかもしれません。



なぜ、主イエスは、こんなときに黙り続けていらっしゃるのだろう。

どうして、すぐに来てくださらないのだろう。

これで、もうおしまいだ。

そう思えるようなことが、起こるかもしれません。



でも、知って欲しいのです。

父なる神さまのラザロに対する御心はいやしではなく、復活だったのです。



イエス・キリストも人としては、

すぐに飛んで行って、いやしてあげたかったでしょう。

しかしイエス・キリストは、父なる神の御心の中に生きておられました。

イエス・キリストは、

マルタやマリヤ、

そしてラザロよりも、

はるかに高い父なる神の愛と神の計画の中を

生きておられたのです。



マリヤもマルタも、

ラザロのいやしを信じていましたが、

ラザロが復活するなどということは、

考えることすらできなかったのです。



不信仰と言うにはかわいそうです。

彼らにはラザロが、よみがえってくるということなど、

発想さえ出来なかったのです。

しかし、主の御心は、そこにありました。

彼らの信仰よりも、もっと高いところにあったのです。



イエス・キリストの彼らに対する愛は深く、

彼らの信仰よりも、はるかに高かったのです。

主は、彼らのいやしの信仰を越えて働かれ、

彼らの復活の信仰へと、さらにひきあげられたのです。

そして、彼らの主に対する愛をもっともっと強くされたのです。


これが、私たちの信じている主なのです。

これが、主なるイエス・キリストなのです。

彼は決して私たちを裏切ることはないのです。


もしあなたが、かつて祈っていたけど答えられなかった。

もう時は過ぎてしまった、



そう思ってあきらめていることがあるなら、

もう一度、主に目を向けてください。

ラザロに対していやしではなく、

復活を用意されていた主が、

あなたにも復活の奇跡を見せてくださるからです。


2016年10月20日木曜日

10月20日(木) ラザロの復活③




<イエスは彼女に言われた。

「もしあなたが信じるなら、あなたは神の栄光を見る、    

とわたしは言ったではありませんか。」




ヨハネの福音書11章41節



従う者が見る神の栄光



イエス・キリストは心に憤りを覚えながら、

ラザロの墓の前に来られました。

そのお墓は、ほら穴になっていて、

石がそこに立てかけてありました。



そのとき、イエス・キリストは言われました。



「その石をとりのけなさい。」と。



マルタは、すぐに言いました。



「主よ。もう臭くなっておりましょう。  

4日になりますから。」



マルタの心の中に、

「イエスさま、  

どんなにあなたがラザロを愛してくださっていても、もう遅いのです。  

いまさら、死んで4日にもなるのに。  

石を取りのけても何にもなりません。  

もうラザロは、戻ってはきません。」



そういう思いが、かけめぐっていたかもしれません。



しかし主は、はっきりと言われたのです。



「もしあなたが信じるなら、あなたは神の栄光を見る、  

とわたしは言ったのではありませんか。」と。



マルタは、このことばを聞いたとき、呟くことも疑うことも止めました。

よくわからないまま、とにかく、主の言われる通りにしたのです。



彼らは石を取りのけました。

主イエスに従ったのです。

そのとき、主イエスは目をあげて、父なる神に祈られたのです。



「父よ。私の願いを聞いてくださったことを感謝いたします。」と。

そして祈り終えられたあと、大声で叫ばれました。



「ラザロよ。出て来なさい。」



すると死んでいたはずのラザロが、

手と足を長い布で巻かれたまま、出てきました。

彼の顔は布切れで包まれていました。



ラザロは生き返ったのです。

復活したのです。



何と死んだラザロが、よみがえってきたのです。

主は言われました。



「ほどいてやって帰らせなさい。」



主の御心は、ラザロのいやしではなく、復活にあったのです。



でも、考えてみてください。

なぜイエス・キリストは、わざわざ石を取りのけさせたのでしょう。

イエス・キリストにとって、

石などあっても、別にラザロをよみがえらせることは難しくないはずです。

かりに石が邪魔なら、

イエス・キリストがよみがえられたときのように

天使に、石を取りのけさせることも出来たはずです。



しかし、イエス・キリストは天使ではなく、

マルタやマリヤたちに、

石を取りのけるようにと言われました。

おそらく彼らは、石を取りのければ、

ラザロがよみがえってくるとは思ってもいなかったでしょう。

いやそれどころか、こんなことをしても、

いまさら何にもならないと思ったかもしれません。

けれども、彼らは従ったのです。

イエス・キリストのことばに従ったのです。



ここに鍵があるのです。



神さまは、彼らの従順を通して働かれたのです。

イエス・キリストのことばに従ったとき、

それを信じるものの行為として見てくださったのです。

ラザロは、よみがえりました。

彼らが考えることも、

期待することさえもしていなかったような

大いなる神の栄光が現わされたのです。

主イエスのことばに従う者は、このような神の栄光を見るのです。

2016年10月19日水曜日

10月19日(水) ラザロの復活







そのようなわけで、

イエスは、ラザロが病んでいることを聞かれたときも、

そのおられた所になお二日とどまられた。




ヨハネの福音書11章6節



栄光を受けるため、
すぐ来られないイエス




ラザロが病気になると、

すぐにマルタとマリヤは、

イエス・キリストのところに使いを送りました。



「あなたの愛している者が病気です。」



そう言えば、

すぐにイエス・キリストは飛んできてくれる。

そして、きっとラザロはいやされる。

2人は、そう堅く信じていました。



そして、ラザロも

イエス・キリストが来てくれれば、

「自分は治る」と信じていました。



彼らは、主が自分たちを愛しておられることを、知っていました。

だから、必ず来てくださる。

しかも、すぐに飛んできて、

ら 完全にいやしてくださると信じていたのです。



ところが、主は言われたのです。



「この病気は死で終わるだけのものではなく、神の栄光のためのものです。  

神の子がそれによって栄光を受けるためです。」と。



まるで、ラザロは死ぬと言っているようではありませんか。

しかもイエス・キリストは、

なお2日も、そこにとどまっておられたのです。

それから、やっとイエス・キリストは、

重い腰を上げてラザロのところに行かれました。



しかし、もうラザロは死んでいました。

しかもイエス・キリストが

ベタニヤについたときには、 何とラザロが死んで4日もたっていました。



なぜイエス・キリストは、

すぐに飛んできてくださらなかったのでしょう。

主イエスは、ラザロを愛しておられるのに・・・・。



ラザロもマルタやマリヤたちも、

イエス・キリストを心から愛し、

必ずいやしてくださると信じていたのに。



彼らは信じていたのです。

必ずいやしてくれると信じていたのです。

しかし、イエス・キリストは来てくださらなかった…。



マルタやマリヤは、それでも主を愛していました。

主を信じていました。

でも、もうラザロは戻ってこないのです。

やりきれない気持ちが、彼らの中にあったでしょう。

確かに、天でラザロと会うことができる。



でも、なぜイエス・キリストは、

すぐに来てくださらなかったのだろうか、

という思いはどうしても消えなかったでしょう。



ですから、イエス・キリストがベタニヤに来たとき、マルタは言いました。


「主よ。もしここにいてくだったなら、  

私の兄弟は死ななかったでしょうに。」



イエス・キリストは彼女に言われました。



「あなたの兄弟はよみがえります。」と。



マルタは

「私は、終りの日のよみがえりの時に、  

彼がよみがえることを知っております。」と答えました。



この答えは間違いではありません。

しかし、イエス・キリストの言いたかったこととは違いました。

イエス・キリストは、

ラザロが今よみがえると言われたのです。

しかしマルタにはそれが理解できませんでした。

それを不信仰と言うにはかわいそうです。

だれもこのとき、

主がなさろうとしていることを理解できる人など、

いなかったでしょう。



それほどに、

主がなさろうとしていた業は、

人の理解を、はるかに越える大いなるものだったのです。



マリヤも同じことを言い、泣きました。

回りにいたユダヤ人たちも泣きました。



主イエスは、それをご覧になると、

霊の憤りを覚え、心の動揺を感じて、

言われたのです。



「彼をどこに置きましたか。」と。

そして、イエス・キリストも涙を流されたのです。

2016年10月18日火曜日

10月18日(火) ラザロの復活①







さて、ある人が病気にかかっていた。

ラザロといって、マリヤとその姉妹マルタとの村の出で、ベタニヤの人であった。


イエスはマルタとその姉妹とラザロとを愛しておられた。






<主に愛されていた
マルタとマリヤ、そしてラザロ



エルサレムから3kmほど離れたところに、ベタニヤという町があります。

そこに3人の兄弟姉妹が住んでいました。

マルタとマリヤという2人の姉妹と弟のラザロでした。

彼らは、イエス・キリストを、とても愛していました。

もちろん、イエス・キリストも、彼らのことを、こよなく愛していました。



ところが、ラザロが病気になってしまったのです。

しかも、それはとても重い病気でした。

主を愛し、主に愛されているラザロが、病気になってしまったのです。



おかしいと思いませんか。

ラザロは、こんなに主を愛しているのに、

主も、ラザロを愛されているのに、

なぜ健康ではなく、病気がやってくるのでしょう。

祝福ではなく、

災いとしか思えないようなこんなに重い病気がやってくるのでしょう。



私たちにも、神様がいるなら、神様が愛なら、

なぜ、こんなことが許されるのだろう…、

そう思いたくなるようなことが、許されることがあります。



主に従っているのに、

なぜ、神さま、こんなことが起こるのですか、

と言いたくなるような時があります。



しかしそこには、私たちの考えよりも、もっと深い神の愛と計画があるのです。

ラザロの場合もそうでした。


2016年10月17日月曜日

10月17日(月) マリヤとヨセフ⑥




主によって語られたことは

必ず実現すると信じきった人は、

なんと幸いなことでしょう。



ルカ福音書1章45節



主は私たちにも語られる


私たちにも、主は語ってくださいます。



もしかしたら、


マリヤのように、


天使を通してかもしれません。

(残念ながら、まだ私は一度も天使にはあっていませんが…)



あるいは、

ヨセフのように、

夢の中で語られることがあるかもしれません。

もちろん、

夢は単に潜在意識の場合もありますし、


サタンから来ているものも
ありますから、


十分に吟味が必要ですが…。

確かに、

主は、

いまも語ってくださるのです。



そして、

わたしたちにも、

主の恵みと使命を与えてくださるのです。


マリヤとヨセフに恵みを与え、

人となられたイエスさまの

父と母としての使命を与えられたように。



主が語られたときに、

彼らのように、

その神の言葉を、

そのまま信じて、

すぐに従うことができるようにと、

祈らずにはいられません。



たとえ十字架を負うことがあっても、

誤解や中傷の中に入るとしても、

神の言葉を信じ、

神の言葉に従う者になりたいと願います。



マリヤとヨセフが、

主からの祝福と報いを受けたように、



そのとき、

きっと主は豊かな報いと祝福を、

私たちにも与えてくださるでしょう


2016年10月16日日曜日

10月16日(日) マリヤとヨセフ⑤




主によって語られたことは

必ず実現すると信じきった人は、

なんと幸いなことでしょう。




ルカ福音書1章45節



神のことばを
素直に信じたふたり




ヨセフもマリヤも

ガリラヤという地方のナザレという田舎町に住んでいる

目立たないごく普通の人だったと思います。



けれども、

彼らは主の使いが来たとき、

語られた神のことばを、

素直な心で受け取る心の低さを持っていました。



処女がみごもるという

普通では考えられないことでしたが、

彼らは、すんなりと、

その言葉を信じることができたのです。



彼らは知っていたのです。

神さまという方を。

神さまの言葉を。



だから、

すぐにこれは神さまだ。

本当に神さまが語っていると、

わかったのでしょう。



そして、

マリヤもヨセフも、

実にすんなりと

神の言葉が語られたなら、

すぐに、信じて従っていきました。



神さまは、このふたりの心を知っておられました。

主への信仰と従順を知っていたのです。

神さまは大都会のエルサレムでもなく、

レビ人やパリサイ人のような宗教家のエリートでもなく、

このふたりを、

人となられるイエスさまの

父として、母として選ばれたのでした。



神さまは、心をご覧になるのです。

人々が見ていない、

見ようともしない、 心の中を見ていてくださるのです。

2016年10月15日土曜日

10月15日(土) マリヤとヨセフ④







ヨセフは眠りからさめ、

主の使いに命じられたとおりにして、
その妻を迎え入れ、

そして、子どもが生まれるまで彼女を知ることがなく、その子どもの名をイエスとつけた。




マタイの福音書1章24・25節



ヨセフの苦悩



ところで、いいなづけのヨセフは、

このとき、どうしていたのでしょう。



彼は、とても正しい人でした。

誠実な真面目な男でした。

心からマリヤを愛し信頼していました。



それだけに、

マリヤがみごもっていると、

わかったときのショックは大きかったのです。



眠れない夜を幾晩も過ごし、

彼は思い悩みました。



そして、 ついに彼は、

マリヤとの婚約は、

破棄しようと決心しました。



しかしヨセフは、

マリヤを、

それでも愛していました。

それで、

人前でマリヤの恥をさらして、

マリヤをさらし者にしたくなかったので、

ひそかに縁を切ろうとしました。



そう決心はしたものの

ヨセフが、このことを考えあぐねて思いめぐらしていると、

主の使いが、ヨセフの夢の中に現れたのです。



主の使いは、ヨセフに向かって言いました。



「ダビデの子孫であるヨセフ。  

ためらわず、恐れないで、  

あなたの妻マリヤと結婚し彼女を迎えてあげなさい。  

その胎に宿っているものは聖霊によるのです。  

マリヤは聖霊によって身ごもったのです。  

彼女は男の子を産みます。  

その名をイエスとつけなさい。  

この方こそ、ご自分を信じる人々を、罪から救ってくださる方です」



天使は、はっきりと言いました。

マリヤがみごもったのは聖霊によるのだと。



このとき、

ヨセフは天使を通して

語っておられる神の言葉を信じたのです。



ヨセフは眠りから目がさめると、

主の使いに命じられたとおりに、

マリヤを、すぐに妻として迎え入れたのです。



そして、子どもが生まれるまで、

ヨセフは、マリヤに触れようとはしませんでした。

決して彼女を知ることはなかったのです。

ヨセフは心から神さまを恐れ、

そして本当にマリヤを愛していたのです。



子どもが生まれたとき、ヨセフは「イエス」と名づけました。


2016年10月14日金曜日

10月14日(金) マリヤとヨセフ③




マリヤは言った。「ほんとうに私は主のはしためです。

あなたのおことばどおりこの身になりますように。」

こうして御使いは彼女から去って行った




ルカの福音書1章38節



神の言葉を信じて十字架を引き受けたマリヤ




マリヤにとって、

イエス・キリストの母になるということは、

すばらしいことでした。



まさに、それは恵みというほかありません。

確かにそうです。

しかし、実のところマリヤは、

このとき十字架を背負ったのです。

十字架を引き受けたのでした。



よく考えてみてください。

このとき御使いは、マリヤにだけ現れたのです。



どうして、ほかの人々が、

マリヤの胎の身を、 聖霊によるものと信じることができるでしょう。



まして、 いいなづけのヨセフは、

いったいどう思うでしょうか。



実際、ヨセフは、このことで苦しんだのでした。



マリヤは誰にも理解されず、

誤解と白い目で見られたに違いありません。

マリヤは、

そうなることぐらい予測できたはずです。



しかし、

マリヤはそのことも、

その身に引き受けたのでした。



神の言葉が、

すべて自分に成就することを、

マリヤは、

十字架とともに、

喜んで引き受けたのです。



神が、

この小さな田舎町の

ひとりの名も知られない処女を、

イエスの母として選ばれた理由が、

ここにありました。



マリヤは、

特別にきよくて、

罪がなかったからではありません。



彼女も私たちと同じ罪人だったのです。



しかし、

マリヤは神の言葉の前に、

真実に謙遜でした。

神の言葉を、

そのまま受け取る

本当のへりくだりを持っていました。



例えその結果、

十字架を負うとしても、

誤解や中傷の中に置かれるとしても、

マリヤは神の言葉に、

自分をゆだねるこのできる生きた信仰を、

持っていたのです。



これこそ、神の恵みでした。  



そしてマリヤは、

神ご自身の手によって、

夫となるヨセフの誤解が解かれ、

ヨセフと結婚し、

神さまの愛の真実を見るのです。



「神にとって不可能なことは一つもありません」





2016年10月13日木曜日

10月13日(木) マリヤとヨセフ②




神にとって不可能なことは一つもありません



ルカの福音書1章37節



マリヤは、ガリラヤのナザレというところに住んでいました。



ナザレは、

イエスさまが、30歳まで大工をされて、

両親とともに過ごされた町です。



それで、今では世界的に有名な観光地になっています。



今のナザレは、

イスラエルの中では珍しく、

ユダヤ人とパレスチナ人が仲良く住んでいる

とても大きな町ですが、

当時は900人ぐらいの、

とてもとても小さな田舎町でした。



その小さな誰も目にとめることのなかった

田舎町のひとりの処女のところに、 ある日突然、

御使いガブリエルが、

神から遣わされてくるのです。



御使いは入ってくると、 いきなり処女マリヤにこう言いました。



「おめでとう。  

恵まれた方。  

主があなたとともにおられます」



マリヤは、びっくりしました。

いったい何のあいさつなのだろう・・・・・。

何のことを言っているのだろう・・・・・。



マリヤは、

ひどくとまどって、

思わず考え込んでしまいました。



すると御使いが、言いました。

もっと驚くようなことを・・・。



「怖がらなくていいのです。  

マリヤ。  

あなたは神さまから恵みを受けたのです。  

ご覧なさい。  

あなたはすぐにみごもって、男の子を産みます。  

その子の名を『イエス』とつけなさい。  

その子は非常に偉大なすぐれたものとなり、  

いと高き方である神の子と呼ばれます・・・・・」  



マリヤはびっくりしました。



子どもができると言われても、

まだ、彼女は結婚してはいないのです。

男の子が生まれると言われても、

まだ、彼女は男性を全く知らないのです。



彼女は正真正銘の処女でした。



そこで、

マリヤは思わず御使いに、

言い返してしまいました。



「どうしてそのようなことになりえましょう。  

私はまだ男の人を知りませんのに」  



マリヤにとって御使いの言葉は、

とても受け入れることのできるものではありませんでした。

処女である彼女に、子どもができるわけがないのです。



しかし御使いは、 即座に答えて、こう言ったのです。



「聖霊があなたの上に臨み、  

いと高き方である神の力があなたをおおいます。  

神が、聖霊によって、  

あなたのうちに命を創造されるのです。  

それゆえ、生まれてくる者は、  

聖なる者、神の子と呼ばれます」  



そして、

マリヤの親戚に当たるエリサベツのことを言いました。

彼女は不妊の女だったのに、

あの年になってから男の子を宿して、

いまはもう6カ月になっていると。



そしてこう続けて言いました。



「神にとって不可能なことは一つもありません」  


こう言われたとき、

マリヤはどうしたでしょう。

なお御使いに言い逆らったでしょうか。

私は処女ですから、

そんなことは無理ですと。

あるいは、きょとんとして

御使いの言うことがよく理解できないまま、

あきらめたでしょうか。

なるようになるさと。



そのどちらでもありませんでした。



マリヤは、

御使いを通して語られた神の言葉を、

そのまま信じて受け取ったのです。

彼女自身の中に、

神さまが語られた言葉を、

そのまま引き受けたのでした。



マリヤは御使いに答えました。



「ほんとうに、私は主のはしためです。  

どうぞ、あなたのおことばどおりこの身になりますように」   



こうマリヤが言ったとき、御使いは去っていきました。

2016年10月12日水曜日

10月12日(水) マリヤとヨセフ①




そして急いで行って、マリヤとヨセフと、

飼葉おけに寝ておられるみどりごとを捜し当てた




ルカの福音書2章16節



あなたは、イエス・キリストのご両親を知っておられますか。

もちろん、すぐにおわかりになりますね。

そう、マリヤとヨセフです。



イエス・キリストは、神であられました。

でも、私たちを罪から救い出すために人となってくださいました。

その人となられたイエス・キリストの父と母に選ばれたのが、 ヨセフとマリヤだったのです。

どうして、彼らが選ばれたのでしょう。

なぜ神さまは、ほかの誰でもなく、彼らを選ばれたのでしょう。



正直に言って、そのすべての理由がわかるわけではありませんが、

今日から、このふたりに目をとめながら、

神さまが、なぜ彼らを選ばれたのかの理由を探ってみましょう。

きっと、わたしたちへのメッセージが、その中に隠されていることでしょう。

そしてまた、神さまのすばらしさを発見することでしょう。

2016年10月9日日曜日

10/9 (日) 弟子たちの召命⑤







このころ、イエスは祈るために山に行き、

神に祈りながら夜を明かされた。

夜明けになって、弟子たちを呼び寄せ、

その中から十二人を選び、

彼らに使徒という名をつけられた。


      
ルカの福音書6章12・13節




12弟子の選択



イエス・キリストの周りに群衆が押しかけ、

弟子の数が増えていきました。



このころ、

イエス・キリストは山に行き、

神に祈りながら、夜を明かされます。



そして、

弟子たちの中から

12人をお選びになり、

彼らに使徒という名をつけられました。



イエス・キリストは、

ご自分の身近に置く12弟子を選ばれるときも、

父なる神に祈り、徹夜して、

父なる神の御心を聞き、尋ね求められました。



そして、イエス・キリストを

裏切ることになるイスカリオテのユダも、

弟子の中に加えられたのです。

きっと私たちなら、省いてしまうのではないでしょうか。

しかし、イエス・キリストは、

父なる神さまの御心の中に、ご自分を従わせなさいました。



やがて自分を裏切ることになるユダも、

イエス様は退けることなく、

12弟子の中に、

父に従って入れられたからです。



私たちも大切な決定をするときに、

本当に、主の前に出て、時間をかけて祈り、

時には徹夜して祈り、

主イエスの御心を、

尋ね求める必要があるのではないでしょうか。



そして、

私たちの受け入れがたいことを、

語られ示されたとしても、

主イエスが望まれることに、

私たちは従っていくべきなのです。



イエス・キリストは、そうなさいました。



私たちよりも、

はるかに高い計画を持っておられる

主の御手の中に、

私たちの思いや考えをゆだねるときに、

初めて、私たちも

イエス・キリストが、父なる神様に従われたように、

主イエス・キリストに従っていけるのです。


2016年10月8日土曜日

10/8 (土) 弟子たちの召命④






イエスは、そこを去って道を通りながら、

収税所にすわっているマタイという人をご覧になって、

「わたしについて来なさい。」と言われた。

すると彼は立ち上がって、イエスに従った。




マタイの福音書9章9節




取税人マタイの召命


イエス・キリストの弟子の中に、取税人のマタイという人がいます。
当時、取税人というのは、

もっともユダヤ人たちからは嫌われ、軽蔑されていました。



どうしてかと言うと、

イスラエルはローマの支配下にあり、植民地のようなものでした。

取税人は、そのローマの手先になって、

同胞のユダヤ人から税金を取り立てて、ローマに渡すのです。



しかも、そのときに、

本来より多くのお金を、同胞から取り立てて、

自分の懐に入れて、ピンはねをするのが普通でした。



ですから、人々は罪人と同じように、取税人を呼んでいたのです。



ところが、

イエス・キリストは、

取税所に座っていたマタイのところに来て



「わたしについて来なさい」と



彼を呼ばれたのです。



みんなに嫌われていた彼を、

イエス・キリストは呼ばれました。

マタイは、すぐに立ち上がって、

イエス・キリストに従いました。



イエス・キリストの周りには、取税人や罪人がたくさんいました。



あるとき彼らが、

イエス・キリストと一緒に食事をしていると、

パリサイ人たちが、弟子たちに聞いたのです。



「なぜ、あなたの先生は、取税人や罪人と一緒に食事をするのですか」。



これを聞いていたイエス・キリストは言われました。



「医者を必要とするのは丈夫なものではなく、病人です。」

「わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです」と。



私の仕えている教会に、

この御言葉を通してイエス・キリストに救われ、

いまは宣教師になって、

カンボジアに孤児たちの世話に行っている人がいます。



彼女は、自分は罪人だと知っていました。

そして、そんな罪人の自分は愛される資格はないと思っていたのです。

だれも愛してはくれないと思い込んでいたのです。



しかし主イエスは、その彼女を、命をかけて愛し、

彼女を、その名で呼ばれたのです。

彼女は、イエス・キリストについていきました。

主イエスが、彼女を呼んでくださったからです。

 

主は、心をご覧になるのです。

罪を知っている心、

弱さと痛みを覚えている心を、

主イエスは、決して蔑まわれません。



その心に来てくださり、

救いいやし、

そして名を呼んで、

召してくださるのです。



2016年10月7日金曜日

10/7 (金) 弟子たちの召命③






また少し行かれると、

ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネをご覧になった。

彼らも舟の中で網を繕っていた。

すぐに、イエスがお呼びになった。

すると彼らは

父ゼベダイを雇い人たちといっしょに舟に残して、

イエスについて行った。



マルコの福音書1章19・20節


ヤコブとヨハネの召命



シモン・ペテロばかりでなく、シモンの兄弟アンデレも、

別の兄弟ゼベダイの子ヤコブとヨハネも、

すぐに舟も父も残して、イエス様に従っていきました。



ヤコブもヨハネも、父が大好きでした。

とても尊敬していたのです。

そして、彼らの家は裕福でした(網元だったという説もあります)。

彼らは約束されている将来も、大好きな尊敬する父も、

そこに置いて、イエス・キリストに従っていきました。



彼らは、イエス・キリストに惚れ込んでしまったのでしょう。

そして、それは、まちがいではありませんでした。

彼らは、人生のすべてをかけても決して後悔することのない方に、

否、それどころか、もっとも確かな方に、従っていったのです。



あなたは、どうですか。

あなたがかけているものは、

あなたが心を注いでいる方は、

たった一度だけのあなたにしか生きることのできない人生を、

かけるのにふさわしいですか。

いつか必ず、あなたにも終わりが来ます。

そのとき、あなたは決して後悔することのない道を歩いておられますか。



イエス・キリストに従って行く道は、

決して後悔することのない、

確かな、そして最高の道なのです。




2016年10月6日木曜日

10/6 (木) 弟子たちの召命②







話が終わると、シモンに、

「深みに漕ぎ出して、網をおろして魚をとりなさい。」

と言われた。

するとシモンが答えて言った。

「先生。私たちは、夜通し働きましたが、

 何一つとれませんでした。

 でもおことばどおり、網をおろしてみましょう。」

そして、そのとおりにすると、

たくさんの魚がはいり、網は破れそうになった。

・・・・・中略・・・・・・

イエスはシモンにこう言われた。

「こわがらなくてもよい。

 これから後、あなたは人間をとるようになるのです。」

彼らは、舟を陸に着けると、

何もかも捨てて、イエスに従った。



ルカの福音書5章4・5・6・10•11節



シモン・ペテロの召命

イエスが語る神の言葉を聞いた群衆たちは、

主イエス・キリストのところに押し迫っています。



それでイエス・キリストは、

漁師に頼んで、ガリラヤ湖の湖畔にあった小舟の一つに乗り、

その小舟を少し漕ぎだしたところから、群衆に教えられました。



話しが終ったとき、

イエス・キリストは、その小舟の持ち主だったシモンに



「深みに漕ぎ出して、網をおろして魚をとりなさい」と言われました。



実は、シモンは、昨晩、夜通し漁に行ってきたところだったのです。

しかも、一匹も取れなかったのです。

こんなことは、滅多にないことでした。

捕れるはずの魚が、まったく一匹も取れなかったのです。



シモンは疲れていました。

やっと網を洗って片づけたばかりでした。

もう体も心もへとへとに疲れ切っていたので、

これから家に帰って休もうと思ったところでした。



そのときイエス・キリストが、言われたのです。



「深みに漕ぎ出して、網をおろして魚をとりなさい」。



このころ、イエス・キリストは、

すばらしい御言葉を語り、

力ある奇跡や、いやしのわざを始めていらっしゃいました。

そのため、多くの群衆が周りに集まり始めていました。

とは言っても、やはりイエス・キリストは大工でした。

しかし、シモンはプロの漁師でした。

しかも、ガリラヤ湖に関しては、熟知しているプロのプロでした。



ですから、シモンは思わず、ひとこと言いました。



「私たちは夜通し働いたのですよ。

 それでも何一つとれなかったのです」と。



しかし彼は



「でもおことばどおり、網をおろしてみましょう」と言って、



主の言われたことに従ったのです。

まさか魚が捕れるとは思ってもいなかったでしょう。

「また疲れるだけだ」と思っていたかもしれません。

けれども、シモンはイエス・キリストの言葉に従ったのです。



そのとき奇跡が起こりました。

昨晩、プロの中のプロだったシモンが

夜通し働いても一匹も取れなかった魚が、

イエス・キリストの言葉どおりに従ったときに、

網が破れそうになるほどたくさんの魚が取れたのです。



彼らの舟だけでは、入り切らないので、

仲間の者に合図して、

助けに来てもらわなければなりませんでした。



そして魚を両方の舟にあげたところ、

あまりにいっぱいだったので、2そうとも沈みそうになりました。



これを見たシモンたちは、驚きイエスの足もとにひれ伏して言いました。



「私のような者から離れて下さい。

 私は、罪深い人間ですから。」



しかしイエスは、このときシモンに、こう言われたのです。

 

「こわがらなくてよい。

 これから後、あなたは人間を取るようになるのです」。



舟が陸に着いたとき、

シモンをはじめ、彼らは、

もう何もかも捨てて、イエス・キリストに従っていきました。



主は、あなたのところにも来られます。

あなたの日々の生活のただ中に来られて、

シモンに語られたように、あなたにも語られるでしょう。



「深みに漕ぎ出して網をおろしなさい」と。



そのとき、あなたが、どんなにそれが無駄だと思えても、

そんなことをしても、何にもならないと思っても

主がおっしゃる言葉に従ってほしいのです。

シモンが従ったように・・。



もし、あなたが、そのときどんなに疲れていても、

心が痛んでいても、

主の言葉には従ってみてください。



あなたの体の疲れも、心の痛みも忘れてしまうほどの祝福と恵みを

主は、あなたに用意して、待っていてくださるのです。

驚くあなたに、主は、きっと言われることでしょう。



「これから後、あなたは人間をとるようになるのです」と。



そして、あなたは人生のすべてを、この方に捧げて、

すべてを捨てて、従っていきたいと、思われるでしょう。



2016年10月5日水曜日

10/5(水) 弟子たちの召命①









そしてすぐ、御霊はイエスを荒野に追いやられた。

イエスは四十日間荒野にいて、

    サタンの誘惑を受けられた。

野の獣とともにおられたが、

   御使いたちがイエスに仕えていた。




マルコの福音書1章12・13節

働きの前の荒野での試み 


イエス・キリストは、

30歳になったとき、家を出て、福音宣教を開始されました。



そのとき、

まず、最初にされたのが、

バプテスマのヨハネから「洗礼=パブテスマ」を受けられることでした。



聖霊に満たされたイエス・キリストは、

御霊に導かれて、荒野に行かれるのです。



御霊に満たされて、御霊に導かれて、荒野に行かれたのです。



しかも、そこでイエス・キリストがされたことは、

悪魔の試みに会われ、誘惑の中を通られることでした。



イエス・キリストは御霊に満たされて、

すぐに福音を語るために、宣教地に行かれたのではなかったのです。

イエス・キリストは、

福音宣教の前に悪魔の誘惑に会うために、わざわざ荒野に行かれたのです。



しかも、それは、御霊に導かれて、でした。



イエス・キリストは、荒野で40日の断食をさます。

その40日の断食の後、空腹を覚えられます。

その中で悪魔の誘惑を受けられ、その誘惑を退けられて、

それから御霊の力を帯びて、ガリラヤに帰られ宣教を開始されるのです。



私たちも、主に従っていくときに、

生涯の召しや人生における大切な働きの前に、

とても辛い経験や、試みの中を通されることがしばしばあります。



主は、あえて私たちを荒野へと追いやり、

悪魔の試みに合わせ、

その誘惑の中で私たちを練りきよめ、

強くして、働きのために訓練し整えてくださるのです。



罪のなかったイエス・キリストが、

洗礼を受けられたばかりでなく、

悪魔の試みに会うために、

御霊に導かれて、荒野へと行ってくださったのです。



それは、私たちが通るすべての道を、通るためでした。

私たちが通らねばならない道を、

イエス・キリストは、決して避けることなく、喜んで通ってくださったのです。



そしてイエス・キリストは、そこで試練と誘惑に勝利し、

私たちに勝利の模範を示し、与えてくださったのです。



荒野での悪魔の誘惑に勝利されたイエス・キリストは、

御霊の力を帯びてガリラヤに帰り、宣教を開始されます。



そのとき、初めに示されたことが弟子たちへの召命でした。



イエス・キリストは、都であり当時の大都会であったエルサレムではなく、

人々が「ガリラヤから預言者は起こらない」と言っていた

そのガリラヤで宣教を開始し、弟子を呼び召し出されるのです。



もちろん、イエス・キリストは、エルサレムをこよなく愛しておられました。



しかし、主が愛された町エルサレムには、

このとき、弟子たちとして主が呼び出される者は見あたらなかったのです。

異邦人のガリラヤと呼ばれたその地の人々を、

主は、ご自分の弟子として選ばれたのでした。



主は、あなたがどこにいたとしても、そこに来てくださいます。

人々は、あなたに目をとめないかもしれません。



けれども、

主はそこに来て、

あなたの心をご覧になり、

あなたの名を呼んで、

弟子として下さるのです。



2016年10月2日日曜日

10月2日(日)ゲツセマネの祈り④






それから、イエスは弟子たちのところに来て言われた。「まだ眠って休んでいるのですか。

 見なさい。時が来ました。

 人の子は罪人たちの手に渡されるのです。

 立ちなさい。さあ。行くのです。

 見なさい。わたしを裏切る者が近づきました。」





   マタイの福音書26章45・46節




決して弟子たちを見捨てられない主イエス・キリスト


イエス・キリストは、

またも彼らを置いて祈りに行かれ、

もう一度同じことをくり返して、三度目の祈りをされました。



それから、イエス・キリストは、弟子たちのところに来て言われました。



「まだ眠って休んでいるのですか。

 もう十分です。

 時が来ました。

 見なさい。人の子は罪人たちの手に渡されます。

 立ちなさい。さあ、行くのです。

 見なさい。私を裏切る者が近づいてきました。」



こうして、イエス・キリストは捕えられたのです。

もう、そのころには夜が明けかけていました。



弟子たちは、そのとき散り散りになり、

イエス・キリストを一人残して逃げていきました。

ゲツセマネで眠ってしまう弟子たちには、

とても耐えることのできない試練だったのです。



しかし、イエス・キリストは、

ゲツセマネで眠り、

十字架のときに逃げ出してしまった弟子たちを、

決して見捨てはされなかったのです。



シモン・ペテロは、

ゲツセマネで眠りこけ、

十字架のときには、

イエス・キリストの後を追いかけてついていきながら、

主イエスに前もって言われた通りに、

鶏が二度泣く前に、三度知らないというのです。



ふりむいたイエス・キリストと目があったとき、

裏切ったペテロは外に出て号泣したのです。

しかし、このペテロが、

あのペンテコステの日に、立ち上がって説教し、

三千人の人たちが改心するために用いられたのです。



何が彼を変えたのでしょうか。

それは復活したイエス・キリストに出会ったペテロが、

主のことばに従って、祈って聖霊を待ち望んだからでした。



ペテロが真剣に祈って待ち望んだとき、

ゲツセマネで眠りこけていたペテロでさえも

聖霊の恵みによって、大きく変えられたのでした。



イエス・キリストは眠りこけ、

呪いをかけてイエスを知らないと言ったペテロを赦してくださり、

彼の弟子としての選びと、

使徒としての使命を捨てられはしなかったのです。



いえ、それどころか、

そのペテロに復活された後に現れて、

彼を励まし、祈りへと導かれたのでした。 



あなたが今、

イエス・キリストの足跡に従っていきたいと心から願いながら、

ペテロのように、

肉体の弱さを覚えて、眠りこけてしまっていたとしても、

落胆しないでください。



主イエス・キリストは、

そのあなたを選び、

そのあなたに使命を与えて、

祈りへと必ず導いてくださるのです。



そして祈りの中で戦い勝利して、

主イエスのために立ち上がる者としてくださるのです。

2016年10月1日土曜日

10月1日(土)ゲツセマネの祈り③





それから、イエスは弟子たちのところに戻って来て、

彼らの眠っているのを見つけ、ペテロに言われた。

「あなたがたは、そんなに、1時間でも、わたしと

いっしょに目をさましていることができなかったのか。

誘惑に陥らないように、目をさまして、祈っていなさい。 心は燃えていても、肉体は弱いのです。」



   マタイの福音書26章40・41節




ひとりで祈り戦われたイエス


イエス・キリストは、祈られてから弟子たちのところに戻って来られます。

その時、弟子たちは眠っていました。

それを見て、イエス・キリストは、ペテロに言いました。



「シモン。眠っているのか。

 あなたがたは、ほんのひととき、たったの1時間でさえ、

 わたしといっしょに目をさましていることができなかったのか。

 誘惑に陥らないように、目をさまして、祈り続けていなさい。

 心は燃えていても、肉体は弱いのです。」



そう言って、イエスは再び離れて行き、祈られました。



「わが父よ。

 どうしても飲まずには済まされぬ杯でしたら、

 どうぞみこころのとおりをなさってください。」



イエス・キリストが、

また弟子たちのところに戻って来て、ご覧になれると、

弟子たちは、またも眠っていました。

彼らは、ひどく眠気がさして、

目を開けていることができなかったのです。



彼らは、イエス・キリストに、どう言ってよいか、わかりませんでした。



イエス・キリストは、ゲツセマネの園で、たった一人ぼっちでした。



信頼して連れて行った弟子たちは、

どんなに注意を与えても、眠ってしまっていました。

イエス・キリストにとって、最も重要な特別な時に、

彼らは起きていることができなかったのです。

すぐそばで、

血のような汗を流して祈っているイエス・キリストを見ながら、

彼らは眠ってしまったのです。



イエス・キリストは、

十字架のときに弟子たちに逃げられ、裏切られたのではありません。

その前に、イエス・キリストが、

父なる神に、悲しみ苦しみもだえながら祈りの苦闘をしているときに、

すでに一人で戦っていたのでした。



眠ってしまった弟子たちは、

十字架のとき、

逃げるしか道はなかったのです。



しかし、

その孤独の中で祈られたイエス・キリストは、

十字架という父なる神から託された、

この地上に遣わされた最も重大な使命を、

しっかりと受け取られたのでした。



私たちも主に従っていくとき、

必ず、だれにも理解してもらえない孤独な時をとおります。

この人だけには、わかってもらいたいと思う人が、

一番大切なときにいなかったり、

眠りこけていたりすることがあります。

そんなとき、

たった一人で、

主イエスの前に出て、

祈らなければならなくなってしまいます。



でも、その時に思い出してほしいのです。

私たちの主イエス・キリストは、

十字架を前にして、

ゲツセマネで、まさにそこをとおられたのでした。



あなたも、その孤独な祈りの戦いを通り抜けたとき、

すばらしい主イエス・キリストの勝利が与えられるのです。