2016年9月29日木曜日

9月29日(木)ゲツセマネの祈り①





それからイエスは弟子たちといっしょに

ゲツセマネという所に来て、彼らに言われた。

「わたしがあそこに行って祈っている間、

 ここにすわっていなさい。」



   マタイの福音書26章36節


十字架の前にゲツセマネで祈られた主


十字架に架けられたときのイエス・キリストは、

どんなに嘲られ、罵声されても何一つ言い返さず、

「父よ。彼らを赦してください。」と取りなされました。



しかし、隣にいた強盗が

「私のことを思い出してください。」と言った途端、

間髪を入れずに、

イエス・キリストは、

「今日、あなたは私と共にパラダイスにいる。」と答えられました。



「完了した。」と言って、

ご自分の霊を父なる神の御手に委ねてしまわれるまで、

イエス・キリストは、

しっかりと十字架を受け止められて、その使命を全うされたのです。



裏切るユダが、

一隊の兵士たちや剣や棒を手にした多くの群衆を連れて、

イエス・キリストを捕らえに来たときでさえ、

イエス・キリストは、

全くたじろぐことも、恐れることも、慌てることもなく、

むしろイエス・キリストのほうから、

「誰を探すのか。」と彼らに言われたのでした。



驚いた弟子の一人のシモン・ペテロが剣を抜いて、

大祭司のしもべに撃ちかかり、

右の耳を切り落としてしまった時も、

イエス・キリストは、ペテロに

「剣をさやに収めなさい。

 父がわたしに下さった杯を、どうして飲まずにいられよう。」と言って、

そのしもべの耳にさわり、すぐに直してやられたのです。



なんと堂々として、全く平然と落ちついておられるのでしょうか。

こんな時にさえ、愛を持って接しておられるのでしょう。



イエス・キリストが、

あまりに落ちついて堂々としておられたので、

捕らえに来た役人たちの方が、

思わずあとずさりして、地に倒れてしまったほどでした。



イエス・キリストは、

口づけで裏切ろうとしていたユダにさえ、

「友よ。」と声をかけられたのです。



それほどに、心に余裕を持っておられました。

何という心の余裕、何という落ち着きでしょう。

しかも愛に満たされている。



イエス・キリストは神の子だったから、

十字架を前にしても、こんな余裕があったのでしょうか。



確かに、イエス・キリストは神の子でした。



しかし、わたしたちと同じ人となって下さった「人の子」だったのです。

イエス・キリストが、

こんなにも余裕があったのは、

実は、この十字架を前にして、

捕らえられる直前に祈られたからでした。



血のような汗を流しながら、

悲しみ悶え、苦しみもだえながら

父なる神の前に祈られたからでした。



だからこそ、

イエス・キリストは裏切る弟子たちにも動揺する事なく、

愛を示し、

父から与えられたご自分の杯である十字架に向かって

真っ直ぐに進んで行かれたのでした。



イエス・キリストが捕えられる前に祈られた祈り、

それは「ゲツセマネの祈り」として、とても有名です。

そのゲツセマネの園に、あなたと共に行き、

イエス・キリストの祈りと言葉に耳を傾けてみましょう。

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