2016年9月30日金曜日

9/30 (金) 今日のみことば 映像

9月30日(金) ゲツセマネの祈り②





そのとき、イエスは彼らに言われた。

「わたしは悲しみのあまり死ぬほどです。

 ここを離れないで、

 わたしといっしょに目をさましていなさい。」

それから、イエスは少し進んで行って、

ひれ伏して祈って言われた。

「わが父よ。できますならば、

 この杯をわたしから過ぎ去らせてください。

 しかし、わたしの願うようにではなく、

 あなたのみこころのように、なさってください。」



   マタイの福音書26章38・39節


苦しみもだえて祈られるイエス


イエス・キリストは、

最後の晩餐が終わると

弟子たちといっしょに、ゲツセマネという所に来られました。

このゲツセマネというのは、

イエス・キリストが、たびたび弟子たちと会合された場所でした。

そして祈っていた場所でした。



実はこのとき、もう十字架が直前に迫っていたのです。

イエス・キリストは、そのことを知っておられたのです。

だから、いつものこの場所、ゲツセマネに来て、祈られたのです。

イエス・キリストは、弟子たちに言われました。



「わたしがあそこに行って祈っている間、ここにすわっていなさい。」



そう言ってから、

イエス・キリストは、

ペテロとゼベダイの子ヤコブとヨハネの3人だけをいっしょに連れて

祈りに行かれました。



すると、あのイエス・キリストが、

祈りの中で、悲しみと深い恐れで、苦しみもだえ始められたのです。



イエス・キリストは、彼らに言われました。



「わたしは悲しみのあまり死ぬほどです。

 ここを離れないで、わたしといっしょに目をさましていなさい。」



イエス・キリストは、いっしょに祈っていなさいとは言われませんでした。

ただ「ここを離れないで、目をさましていなさい。」と言われたのです。

でも、弟子たちは、目をさましていることさえ出来なかったのです。



石を投げれば届くほどのすぐそばでイエス・キリストは、

ひざまずきひれ伏して、祈っておられました。

今まで見たこともないほど苦しみもだえながら、切に祈っておられました。

あのイエス・キリストが、

こんなにも悲しみ苦しみながら、父なる神に祈られたのです。



イエス・キリストは、これからかかる十字架を知っておられました。

罪を犯したこともなく、

罪を知らない方が、

罪をその身に負わなければならないことも、

サタンの呪いを、その身に負わなければならないことも、

イエス・キリストは、知っておられたのです。



しかし、何よりもイエス・キリストが苦しまれたのは、

父なる神に捨てられなければならないことでした。

主イエス・キリストは、いつも父なる神とともにおられました。



いつも、

どんなときでも、

イエス・キリストは父なる神と一つだったのです。



それゆえ、主イエスは、

こんなにも悲しみ苦しみながら、

血のような汗を流して祈られたのでした。



「アバ。父よ。

 あなたにおできにならないことはありません。

 どうか、みこころならば、

 この杯を私から取りのけ、過ぎ去らせてください。

 しかし、わたしの願うようにではなく、

 あなたのみこころのように、なさってください。」と。



イエス・キリストが、

十字架を前にして、あんなにも堂々としていられたのは、

このゲツセマネの祈りがあったからでした。



主イエス・キリストは、

祈りの中で戦い、悲しみ苦しみぬかれ、

そして、勝利されたのでした。



私たちにも、十字架が許されることがあります。

そんなとき、

私たちも、まず主イエスの御足の後に従って、

ゲツセマネに行きましょう。

祈りの場に行って、

十字架を負う前に主に叫び、心を注ぎ出して、

イエス・キリストのように勝利を受けましょう。



そのとき、私たちは、十字架を喜んで引き受けることができるのです。

2016年9月29日木曜日

9月29日(木)ゲツセマネの祈り①





それからイエスは弟子たちといっしょに

ゲツセマネという所に来て、彼らに言われた。

「わたしがあそこに行って祈っている間、

 ここにすわっていなさい。」



   マタイの福音書26章36節


十字架の前にゲツセマネで祈られた主


十字架に架けられたときのイエス・キリストは、

どんなに嘲られ、罵声されても何一つ言い返さず、

「父よ。彼らを赦してください。」と取りなされました。



しかし、隣にいた強盗が

「私のことを思い出してください。」と言った途端、

間髪を入れずに、

イエス・キリストは、

「今日、あなたは私と共にパラダイスにいる。」と答えられました。



「完了した。」と言って、

ご自分の霊を父なる神の御手に委ねてしまわれるまで、

イエス・キリストは、

しっかりと十字架を受け止められて、その使命を全うされたのです。



裏切るユダが、

一隊の兵士たちや剣や棒を手にした多くの群衆を連れて、

イエス・キリストを捕らえに来たときでさえ、

イエス・キリストは、

全くたじろぐことも、恐れることも、慌てることもなく、

むしろイエス・キリストのほうから、

「誰を探すのか。」と彼らに言われたのでした。



驚いた弟子の一人のシモン・ペテロが剣を抜いて、

大祭司のしもべに撃ちかかり、

右の耳を切り落としてしまった時も、

イエス・キリストは、ペテロに

「剣をさやに収めなさい。

 父がわたしに下さった杯を、どうして飲まずにいられよう。」と言って、

そのしもべの耳にさわり、すぐに直してやられたのです。



なんと堂々として、全く平然と落ちついておられるのでしょうか。

こんな時にさえ、愛を持って接しておられるのでしょう。



イエス・キリストが、

あまりに落ちついて堂々としておられたので、

捕らえに来た役人たちの方が、

思わずあとずさりして、地に倒れてしまったほどでした。



イエス・キリストは、

口づけで裏切ろうとしていたユダにさえ、

「友よ。」と声をかけられたのです。



それほどに、心に余裕を持っておられました。

何という心の余裕、何という落ち着きでしょう。

しかも愛に満たされている。



イエス・キリストは神の子だったから、

十字架を前にしても、こんな余裕があったのでしょうか。



確かに、イエス・キリストは神の子でした。



しかし、わたしたちと同じ人となって下さった「人の子」だったのです。

イエス・キリストが、

こんなにも余裕があったのは、

実は、この十字架を前にして、

捕らえられる直前に祈られたからでした。



血のような汗を流しながら、

悲しみ悶え、苦しみもだえながら

父なる神の前に祈られたからでした。



だからこそ、

イエス・キリストは裏切る弟子たちにも動揺する事なく、

愛を示し、

父から与えられたご自分の杯である十字架に向かって

真っ直ぐに進んで行かれたのでした。



イエス・キリストが捕えられる前に祈られた祈り、

それは「ゲツセマネの祈り」として、とても有名です。

そのゲツセマネの園に、あなたと共に行き、

イエス・キリストの祈りと言葉に耳を傾けてみましょう。

2016年9月26日月曜日

9月26日(月)不妊の胎が開かれて⑦






聞いた人々はみな、それを心にとどめて、

「いったいこの子は何になるのでしょう」と言った。

主の御手が彼とともにあったからである。



   ルカの福音書1章66節


使命ゆえに待たされ整えられる


ザカリヤがヨハネと書いた瞬間、

口が開かれ、

神を賛美し出したのを見て、

人々は驚きました。



そして、神を恐れたのです。



このことの一部始終は、

その地方一帯に語り伝えられていきました。

そして、聞いた人々はみな、



「いったいこの子は何になるのだろうか」と言い、



この子とともにある主の御手を見たのです。



ザカリヤには、使命があったのです。

彼に与えられた子、ヨハネには、

救い主イエスさまの道備えをするという使命がありました。



これから始まるリバイバルの中で、

多くの人々が救われ、神の子とされていくでしょう。

彼らは、主の再臨の道備えをしなければなりません。



その彼らを、

主に聞きつつ、主にあって育てていくのは、

私たちの使命なのです。



それゆえ、主はザカリヤを待たされ整えられたように、

私たちをも、待たせ整えていかれるのです。



主の訓練と懲らしめは、愛以外の何物でもありません。

それは、私たちの祝福のためなのです。

2016年9月25日日曜日

9月25日(日)不妊の胎が開かれて⑥





すると、彼は書き板を持って来させて、

「彼の名はヨハネ」と書いたので、人々はみな驚いた。

すると、たちどころに、彼の口が開け、舌は解け、

ものが言えるようになって神をほめたたえた。



   ルカの福音書1章63・64節


懲らしめとは整えの時


私は、ふと思うのです。

もしも、もしも、ザカリヤがおしになっていなかったなら、

もしかすると、

親族や近所の人々に「ヨハネ」とつけるのを反対されたとき、

「ヨハネ」と、この子につけなかったかもしれないと。



そして、彼らが主の言葉に従ったときに、

その懲らしめは終わり、

彼の口から賛美があふれてきたのでした。



主の懲らしめは、私たちに平安な義の実を結ばせます。

そして、私たちに、心からの賛美を与えてくれるのです。

あなたも不信仰のゆえに、

主の懲らしめの中に置かれることが、あるかもしれません。

しかし、それは、主があなたを愛し、子として扱っておられるからです。



主は、たとえあなたが不信仰であったとしても、

あなたに約束されたことは、必ず果たしてくださるのです。



そして、

その成就の時に、

あなたが、それを正しく受け取れるように、

いま、その懲らしめの中で整えてくださっているのです。

2016年9月24日土曜日

9月24日(土)不妊の胎が開かれて⑤





すると、彼は書き板を持って来させて、

「彼の名はヨハネ」と書いたので、人々はみな驚いた。

すると、たちどころに、彼の口が開け、舌は解け、

ものが言えるようになって神をほめたたえた。



   ルカの福音書1章63・64節


この子の名はヨハネ


エリサベツのお腹は日が増し、月が増すごとに、大きくなっていきました。

そのお腹を見るたびに、ザカリヤは思いました。

主は、なんと真実で、すばらしい方なのだろうと。

本当に神に不可能はないと、心から実感するのでした。



そして妻のおなかを触りながら、

子供に何かを話しかけようとすると、

彼は自分がおしであることに気づくのです。

そして思いました。

なんて、おれは不信仰だったのだろうか。

もう二度と、神さまの言葉を疑ったりはしない。

もう不信仰はこりごりだと。



ザカリヤは、妻エリサベツに、

主の神殿であったことを、

何度も何回も繰り返し、筆談で話したことでしょう。

手振りや身振りを交えながら、主が言われたことを話したでしょう。



そして、主が言われたとおりの男の子を産みました。



近所の人々や親族はみな集まって、

主が、エリサベツになしてくださった大きな憐れみと愛に感謝し、

彼女とともに、心から喜びました。



イスラエルでは、8日目に幼子に割礼を施し、名前をつけます。

普通は、父の名に、ちなんだ名をつけます。

それで、みんなは言いました。

父からとって「ザカリヤ」とつけようと。



しかし、母エリサベツは言いました。



「いいえ、そうではありません。

 ヨハネとつけます。

 それでなければならないのです」



みんなは、反対しました。

そんな名前、あなたの親族の中に、ひとりもいないじゃないかと。



そして、父親に手振りで合図して聞きました。

この子に何という名前をつけるつもりなのかと。



するとザカリヤは、書き板を持って来させて、こう書いたのです。

 

「この子の名はヨハネ」



そう書くや否や、

なんと、ザカリヤの口が開かれ、舌は解け、ものが言えるようになったのです。



彼は、神をほめたたえました。



かつて、御使いに不信仰な告白をしたこの口が、

いま、神を賛美する唇へと、変えられていたのです。



10か月ぶりに開いた彼の口は、

もう不信仰ではなく、

神の真実と憐れみに満ちた

愛を賛美する唇へと変えられていたのです。



10か月にわたるおしという懲らしめを通して、

ザカリヤも妻のエリサベツも、

主を信頼して、

神のことばに従う者へと、変えられていたのです。

2016年9月23日金曜日

9月23日(金)不妊の胎が開かれて④





ですから、見なさい。

これらのことが起こる日までは、

あなたはものが言えず、話せなくなります。

私のことばを信じなかったからです。

私のことばは、その時が来れば実現します。」



   ルカの福音書1章20節


神の約束は変わらない


不信仰なザカリヤは、御使いに言いました。



「私は、神の御前に立つガブリエルです。

 あなたに、この喜びの訪れを伝えるように遣わされているのです。

 あなたはおしになって、ものが言えなくなります。

 私のことばを信じなかったからです。

 私の言葉は、その時が来れば実現します。」



御使いは、そう言って去っていきました。

ザカリヤは、神殿から出ていきましたが、

身振りや手振りをするだけで、おしになっていました。



彼は自分の仕事の期間が終わると、自分の家に帰って行きました。



そして、妻エリサベツはみごもったのです。



神さまは生きておられます。

確かにザカリヤの不信仰に対して、

おしになるという、

とても厳しい懲らしめが与えられました。



しかし、彼の不信仰にもかかわらず、

主が1度口に出して語られた約束は、

決して破られたり、変更されたりはしなかったのです。



神さまは、私たち人間とは違うのです。



神の愛は深くて、私たちには、とても及びもつきません。

神さまのことばは、その時が来れば実現するのです。



妻エリサベツは言いました。

喜びに満ちて言いました。



「主は、人々の間で私の恥を取り除こうと心にかけてくださって、

 いま、私をこのようにしてくださったのです」



うれしかったでしょう。

本当に、嬉しくて、うれしくて、たまらなかったでしょう。

ついに主は、願いに答えてくださったのです。



あなたにも、こう言う日が必ずやってきます。

エリサベツのように、

何年も何年もの間、待ち続けていることが、

答えられる日が、必ずやってきます。



主は真実な方。

決して裏切らない方だからです。

2016年9月22日木曜日

9月22日(木)不妊の胎が開かれて③





御使いは彼に言った。

「こわがることはない。

 ザカリヤ。あなたの願いが聞かれたのです。

 あなたの妻ザカリヤは男の子を産みます。



   ルカの福音書1章13節


あなたの願いは聞かれたのです


ある日、くじを引いたところ、

ザカリヤが、主の神殿に入って香をたくことになりました。

これは偶然ではありません。

神さまの時が来て、彼は主のもとに呼ばれたのです。

彼が香をたいている間、大勢の人々は外で祈っていました。

その時です。

突然、主の使いが、彼の前に現れたのです。

ザカリヤは、不安と恐れに襲われてしまいました。



御使いは、講壇の右に立って言いました。



「こわがることはない。

 ザカリヤ。

 あなたの願いが聞かれたのです。

 あなたの妻エリサベツは男の子を産みます。

 名をヨハネとつけなさい。」



さらに御使いは、この子に、どのような使命があるかも語りました。



ところが、ザカリヤは、信じることができなかったのです。

あんなに願い続けていたことが、

ついに神さまに答えられたというのに、

彼は、そのことばを信じることができませんでした。



「いまさらもう無理だ。

 こんなに年をとってしまっている。

 妻にしても同じことだ。

 あんなに年老いてしまっている。

 せめて、あと数年早く、そうおっしゃってくださればよかったのに」



私はクリスチャンになって間もないころ、

この言葉を読んだとき、

なんと、ザカリヤは不信仰なのだと思いました。



でも、いまはそう思いません。

あまりにも長すぎたのです。

彼も妻も、長い間、ずーっと待ち続けたのです。

あまりにも長く待ち続けていたのです。

信じていなかったわけではありません。

でも、あまりに長すぎたので、もう信じきれなくなったのです。



もしかしたら、あなたも、そんなところに今いませんか。



もしそうなら、あきらめないでください。

不信仰だったザカリヤにも、

主は約束どおりに、男の子を与えてくださいました。



主は真実なお方。

憐れみと恵みに満ちておられる方です。



主は、あなたに言われます。



「あなたの願いが聞かれたのです」と。

2016年9月21日水曜日

9月21日(水)不妊胎が開かれて②





エリサベツは不妊の女だったので、

彼らには子がなく、二人とももう年をとっていた。



   ルカの福音書1章7節


不妊は神のさばきではない


ザカリヤは祭司でした。

彼は妻エリサベツとともに、

まじめに忠実に祭司の仕事をしていました。



にもかかわらず、ずーっと願い続けている子供は、与えられなかったのです。



当時の社会では、

子供が与えられないのは神に呪われている、あるいは裁かれている、

というふうに考えられていました。



きっと彼は、心を痛め苦しんでいたことでしょう。

こんなに一生懸命、

神さまの仕事をしているのに、

何がいけないのだろうか、

どうして神さまは、

私たちに子供を授けてくださらないのだろうか、と。



けれども、これは神の呪いでも裁きでもなかったのです。

主は、救い主イエスさまの道備えをするヨハネを、

このふたりに任せる前に、

両親になるための整えと訓練を、しておられたのでした。


もし、みなさんが主に忠実に従っているのに、

なかなかうまくいかず、それどころか逆に、

とても厳しい試練の中に長い期間おかれたりしても、

すぐに、それは神の裁きだと判断しないでください。



神さまには、

私たちより、はるかに高く大きな計画がしばしばあるからです。

2016年9月20日火曜日

9月20日(火)不妊の胎が開かれて①





その後、妻エリサベツはみごもり、

五か月の間引きこもって、こう言った。

「主は人中で私の恥を取り除こうと心にかけられ、

 今、私をこのようにしてくださいました。」



   マタイの福音書14章29節


失敗を恐れずに大胆に主イエスのことばに従う


イエス・キリストが生まれる半年前に、ひとりの男の子が生まれます。

名をヨハネといいます。

このヨハネはイエスさまの12弟子のヨハネとは別人で、

悔い改めのバプテスマを授けたことから

「バプテスマのヨハネ」と言われています。



不妊であった年老いたエリサベツという女性が、彼を身ごもりました。

それは、まさに奇跡でした。

そして、その誕生には、神さまの深い憐れみに満ちた愛と、

ヨハネの両親である父のザカリヤと母エリサベツへの主の整えがあったのです。



今回は、このことについてお話したいと思います。

あなたが長い間祈り願い続けていることが、

まだ答えられないでいるなら、

きっと、主は、あなたに今回、励ましを語ってくださることでしょう。



また自分の不信仰を嘆きながら、

もう神さまは、約束を果たされないのではと恐れている方がいらっしゃるなら、

きっと主は、あなたに、私たちの不信仰にもかかわらず、

約束を成就してくださる主の真実と憐れみの深さを教えてくださるでしょう。

2016年9月19日月曜日

9/19 (月) 今日のメッセージ



音声でお聞きください



Location:Heiwamachi,Nagasaki,Japan

9月19日(月)水の上を歩く⑤





イエスは「来なさい。」と言われた。

そこで、ペテロは舟から出て、

水の上を歩いてイエスのほうに行った。


   マタイの福音書14章29節


失敗を恐れずに大胆に主イエスのことばに従う


私たちは、

もっと大胆に、

ペテロのように、

主イエスのことばを求めるべきではないでしょうか。

人間の常識をはるかに超える神の御業を、

もっと大胆に、

素直になって、

主イエス・キリストに求めるべきではないでしょうか。

ことばをくださいと。



私たちが、ペテロのようにもっと単純になって、

大胆に、主イエスに、ことばを求めるなら、

主イエスは、喜んで語ってくださるでしょう。



私たちが、そのことばに従って踏み出すなら、

私たちも、水の上を歩けるのです。



主イエス・キリストは、私たちにも奇蹟を体験させて下さるのです。


もしかすると、

私たちもペテロのように、

せっかく信仰で始めたことを、

疑い不信仰になって、溺れてしまうかもしれません。

でも、ペテロを、

主は、すぐに助けられたことを覚えてほしいのです。


舟の中で恐れているのでもなく、

ペテロを見て笑うのでもなく、

失敗を恐れずに、

主イエス・キリストに向かって、大胆に求めましょう。

主イエス・キリストは、単純な信仰を喜ばれます。

幼子のような素直な願いを、決してさげすまれません。


リバイバルは、

神のことばによって始まり、

神のことばを信じて従う者たちによって、

担われ進められていくのです。



彼らは、途中で失敗するかもしれません。

しかし、主イエス・キリストは神のことばを求めて、

この日本に、

そして、この終わりの時代に世界において、

何千万人、何十億という救いを、

本気で信じて、

神の言葉に従ってくる者たちに、必ず答えを下さるのです。



2016年9月18日日曜日

9/18(日) 今日のメッセージ 音声・映像



音声でお聞きください


9月18日(日)水の上を歩く④





すると、ペテロが答えて言った。

「主よ。もし、あなたでしたら、

 私に、水の上を歩いてここまで来い、

 とお命じになってください。」


   マタイの福音書14章28節


主イエスにことばを求めたペテロ


幽霊と間違えた弟子たちに、

イエス・キリストは、すぐに話しかけ、



「しっかりしなさい。私だ。恐れることはない。」



と言われ、励まされます。

主イエスは憤ることもなく、

怖れている弟子たちを、すぐに励まし、

幽霊ではなく私だよと言われました。

イエス・キリストは、本当に心の広い大きな方ですね。



するとペテロが、今の今まで幽霊と思って恐れていたのに、

イエス・キリストだとわかるや否や、

急に元気になって、大胆にもこう言ったのです。



「主よ。もしあなたでしたら、

 私に、水の上を歩いてここまで来い、とお命じになってください。」と。



ペテロはこのとき、すぐ飛び出していったのではありませんでした。

彼は、まず主イエスのことばを求めたのです。



イエス・キリストは



「来なさい」



とペテロに言われました。



主イエスのことばを求めたペテロに、主イエスは語られたのです。

イエス・キリストのことばがあれば大丈夫だと信じた彼に、

イエス・木のストは、すぐにことばを与えられたのです。

「来なさい。」と。



ペテロは主のことばを聞いたとき、

舟から出て、

湖に足を踏み出し、水の上に足を踏み出しました。

ペテロはガリラヤ湖の水の上を歩いたのです。

イエス・キリストのほうに向かって歩いたのです。


イエス・キリストが歩くのはわかります。

でも、あのペテロが、罪人の一人であったペテロが何と水の上を歩いたのです。

神のことばと信仰によって。


ところが、ペテロが、

イエス・キリストから目が離れ、風を見たとたん、

恐れがやって来ました。

ペテロは思いました。

「私は人間だ。水の上を歩けるわけがない。」
そう思ったとたん風が強くなり、沈みかけました。
彼は大声で叫びました。



「主よ。助けてください。」と。


イエス・キリストは、すぐに手を伸ばして、彼をつかんで言われました。


「信仰の薄い人だな。なぜ疑うのか。」


そして、ペテロは再び、水の上を歩いて舟に戻ったのです。

今度は、イエス・キリストの憐れみの手にすがりながら…。


多くの方々が、この時のペテロの失敗に目を留めます。

確かに彼は、せっかく素晴らしい信仰をもって踏み出したのに、

風を見て恐れてしまい、溺れてしまいました。



それは信仰が薄かったからです。

疑ったからです。
しかし考えて見て下さい。

この舟の中にいた弟子たちの中で、水の上を歩いたのはペテロだけでした。

いえ私の知っている人の中で、

水の上を歩いたのは、

今のところペテロだけなのです。

ペテロの失敗と不信仰を見て笑うことは簡単です。

しかし、ペテロだけがイエス・キリストにことばを求め、

彼だけが水の上を歩いたのです。

しかも溺れてしまった後にも、

もう一度、主に手をとられて、2度までも水の上を歩いたのです。


2016年9月17日土曜日

9月17日(土) 水の上を歩く③





弟子たちは、イエスが湖の上を歩いておられるのを見て、

「あれは幽霊だ」と言って、おびえてしまい、

恐ろしさのあまり、叫び声を上げた。


   マタイの福音書14章26節


試練を通してさらに主イエスを知る


主イエス・キリストが水の上を歩いて、

弟子たちのところに来られたとき、

何と弟子たちは喜ぶどころか、

イエス・キリストを、幽霊と間違えてしまうのです。

確かに当時、ガリラヤ地域では、

幽霊は湖(水)の上に出ると言われていました。



それにしても、

せっかく水の上を歩いて、

主イエスが来てくださったのに・・・

万有引力にも、

水の比重にも打ち勝って、

水の上を歩いてまで

弟子たちを助けに来てくださったイエス・キリストを、

幽霊と間違えるとは、何という弟子たちなのだろう。

少し前まで、私はそんなふうに思っていました。



でも、今は、弟子たちの気持ちがわかるような気がします。

まさか、イエス・キリストが、

水の上を歩いてくるなどとは、考えてもいなかったのです。

いや、水の上を歩くなどという発想すら浮かばなかったのでしょう。

不信仰と言われれば、それまでですが、何か不信仰以前のような気がします。



弟子たちは、イエス・キリストが、

病人を直されることも、

らい病人をいやされることも、

もうすでに知っていました。

悪霊に憑かれた人を解放し自由にされるのも見てきました。

男子だけで5千人の人を、

たった5つのパンで満腹にされた奇跡も、

つい先ほど見たばかりでした。

でもまさか、水の上を歩くことが出来るなどとは考えすらしなかったのです。



向かい風の中で、真っ暗な夜を、

夜中の3時まで舟の中で過ごすという試練を通して、

弟子たちは、さらに主イエス・キリストの偉大さを知ったのです。



イエス・キリストの愛の深さと大きさを体験したのです。

もし、この試練がなければ、

弟子たちは、

イエス・キリストが、水の上を歩くことが出来るなどということは、

生涯知ることもなかったでしょう。

そして、

ペテロも水の上を歩けるという奇跡を、

体験することもなかったでしょう。



もしあなたが今、試練の中にいるなら喜んで下さい。

試練は、私たちに今まで知っていたよりも、

もっと大きな主イエス・キリストのすばらしさを教えてくれます。

主イエス・キリストの愛の深さ、高さを、

さらに味わい体験させてくれるのです。

主イエス・キリストは、

いつまでも、あなたを試練の中に置き続けてはおられません。

時が来るならば、

あなたが、今まで知らなかった

主イエス・キリストの大いなる力と知恵と愛とを持って、

あなたのところに来、あなたを助けて下さるのです。

2016年9月16日金曜日

9月16日(金)水の上を歩く②





しかし、舟は、陸からもう何キロメートルも離れていたが、風が向かい風なので、波に悩まされていた。

すると、夜中の三時ごろ、

イエスは湖の上を歩いて、彼らのところに行かれた。


   マタイの福音書14章24・25節


向かい風の中で


さて弟子たちは、一体その時、どうしていたのでしょう。



イエス・キリストに、無理やり舟に乗せられて、

向こう岸に向かって船出したのはよかったのですが、

夕方になって、

舟が、ちょうど湖の真ん中に差しかかったときに、

向かい風が強く吹いてきました。

舟は、もう陸から何キロメートルも離れています。

しかも向かい風のため、弟子たちは漕ぎあぐねていました。



もう、今さら戻ることもできません。

かといって、前に向かって進むこともできないのです。

もともと彼らは、ガリラヤ湖のことは、よく知っているプロの漁師でした。

だからこそ、よけい怖かったと思います。



その恐怖と不安の中で、

彼らは真っ暗な夜を、

湖の真ん中の舟の上で過ごすのです。

向かい風を受け続けながら…。



イエス・キリストが、

このあと彼らのところに来て下さる夜中の3時まで、

向かい風の中で、彼らは悩まねばなりませんでした。



でも考えて見て下さい。

この船出は、弟子たちが自分でいいと思ってしたことではなかったのです。



イエス・キリストに強いられて、

主が向こう岸に行きなさいと言われて、

弟子たちは、イエス・キリストといっしょにいたかったのに、

無理やりに、船出させられたのです。



つまり、イエス・キリストの命令に従った結果、

彼らは向かい風にあい、

前にも後ろにも進めなくなり、

にっちもさっちも行かなくなってしまったのです。



私たちの人生にも、同じようなことが許されることがあります。

主イエスに従って始めたことなのに、

途中まで進んだときに、

突然、問題が起こり、

向い風の中で前にも進めず、後戻りもできなくて、

ますます状況は悪くなっていくように思える。

もう途方に暮れてしまう。

そんなことが、あなたの人生にも起こっているかもしれません。

もしかすると、今、あなたはまさに向かい風の中で、

真っ暗な夜を過ごしているかもしれません。

弟子たちが恐れの中にいたように、

あなたも不安と恐れの中におられるかもしれません。



でも覚えてください。

イエス・キリストは、

夜中の3時に水の上を歩いて、

弟子たちのところに来られたのです。



イエス・キリストは、

主のときが来るならば、

必ず助けに来てくださる方なのです。

弟子たちが、考えも及びもつかなかった方法で、

主イエス・キリストは、彼らのところに来てくださいました。



主イエス・キリストは、あなたのところにも来て下さいます。

たとえ、どんなところにあなたがいようとも、神には不可能はないのです。



あなたを愛しておられる主は、

水の上を歩いて弟子たちを助けに行かれたように、

あなたの考えも及びもつかない方法で、必ずあなたを助けに来られます。

そして、それは決して遅れることはありません。



イエス・キリストは、なぜ夜中の3時に来られたのでしょう。

それは、私にもわかりません。

でも一つ確かなことは、それが主の時でした。

主の時は最善です。

そして、主の時が来るならば、

必ずイエス・キリストは、あなたのところにも助けに来て下さるのです。

2016年9月15日木曜日

9月15日(木) 水の上を歩く①








群衆を帰したあとで、

祈るために、ひとりで山に登られた。

夕方になったが、まだそこに、ひとりでおられた。



   マタイの福音書14章23節


父なる神に祈られるイエス


イエス・キリストは、

たった5つのパンと2匹の魚だけで、

男だけで5千人、女や子どもを入れれば2万人はいたと思われる人たちを

満腹させられました。

弟子たちとともに、それを見た群衆は、驚きと感動に包まれていました。



イエス・キリストが、

何か団体を作って政治行動を起こそうと考えていたら、

あるいは、宗教の教祖として君臨しようと思っていたなら、

今は、まさに絶好のチャンスでした。



なぜなら、人々はイエス・キリストの奇跡に驚き、

この方こそ救い主なるメシアではないかと思っていたからです。

もちろん、彼らはメシアの意味を本当に理解していたのではないのですが…。



ところが、イエス・キリストは、

弟子たちを強いて舟に乗り込ませて、

自分より先に向こう岸へ行かせ、

その間に群衆を解散させて、帰してしまわれたのです。



そして、ご自分は祈るために、ひとりで山に登られました。

イエス・キリストは、父なる神と交わることを何よりも優先されたのです。



私たちも、このイエス・キリストの姿から学ぶ必要があります。

ともすれば、日々の生活の忙しさに心奪われて、

主と交わることを、ないがしろにしていることがあるからです。



神の子であられたイエス・キリストが、

あれほどの奇跡をなされた直後に、

あえて、ひとりになって父なる神と交わり、祈られたのです。



まして罪人である私たちは、

何かをすることにばかり目を留めて、

時間を奪われないようにしましょう。



何よりも大切なことは、

主とゆっくりと交わり祈ることだからです。

そこから、すべては始まるのです。


2016年9月14日水曜日

9月14日(水)十字架の生涯の始まり⑤





「十字架を負ってわたしについて来ない者は、

 わたしにふさわしい者ではありません。」


   マタイの福音書10章38節


十字架の道


イエス・キリストは、

公生涯と言われている宣教活動に入る前に、

まずされたことがあります。

それは洗礼を受けることでした。



すでに、バプテスマのヨハネが現れ、ユダヤの荒野で

「悔い改めさない。天の御国が近づいたから」と教え、宣べ伝えていました。



そして、それを聞いた多くの人々が、

エルサレム、ユダヤ全土、ヨルダン川沿いの全地域から出て来て、

自分の罪を告白し、ヨルダン川で彼からバプテスマを受けていました。

バプテスマのヨハネが授けていたのは、悔い改めのバプテスマでした。



そこへ、イエス・キリストが、ヨハネからバプテスマを受けるために、

ガリラヤからヨルダンに来られたのです。

ヨハネは、びっくりして言いました。



「私こそ、あなたからバプテスマを受けるはずですのに、

 あなたが、私のところにおいでになるのですか」 

 

ヨハネは、なんとかして、イエス・キリストにそうさせまいとしました。

イエス・キリストは罪人ではありません。

彼は人となってくださいましたが、罪は決して犯されなかったのです。

イエス・キリストは罪そのものとなってくださいましたが、

イエス・キリスト自身のうちには、何の罪もなかったのです。

ですから、彼が悔い改めのバプテスマなどを受ける必要はないのです。

ところが、イエス・キリストは、ヨハネに答えて言われました。



「いまはそうさせてもらいたい。

 このようにして、すべての正しいことを実行するのは、

 わたしたちにふさわしいのです」

 

こうしてイエス・キリストが、

悔い改めのバプテスマを受けられて水から上がられると、

天が開け、神の御霊が鳩のように降って、イエス・キリストの上に来ました。

そして天から、こう告げる声が聞こえました。



「これは私の愛する子。私はこれを喜ぶ」



本来イエス・キリストは、ヨハネのバプテスマを受ける必要はなかったのです。

しかし、完全な人となられたイエス・キリストは、

すべての点で、私たち罪人と同じようになられたのです。

こうして、彼が自らを低くしてバプテスマを受け、

罪人のひとりに数えられたとき、

父なる神は、そのへりくだりと従順のゆえに、

天より御霊を注ぎ、声をかけられました。



イエス・キリストは、人間が通らねばならない道を、すべて通過するために、

このバプテスマを受けられたのです。

それは、まさに彼にとって正しいふさわしいことでした。



イエス・キリストは、

このように宣教活動の初めから罪人のひとりに数えられ、

十字架の道へと向かって行かれました。



私たちも、主の御心に従っていくとき、

しっかりと、十字架を負いながら福音宣教していきたいものです。

私たちが、しっかりと十字架を負うそのときに、

主は喜んで、私たちに主の御霊を注ぎ、

天より声をかけてくださることでしょう。



「あなたは私の愛する子。私はあなたを喜ぶ」と。

2016年9月13日火曜日

9月13日(火)十字架の生涯の始まり④





また、天からこう告げる声が聞こえた。

「これは、私の愛する子。わたしはこれを喜ぶ。」



   マタイの福音書3章17節


イエスさまの受洗


イエス・キリストは、

公生涯と言われている宣教活動に入る前に、

まずされたことがあります。

それは洗礼を受けることでした。



すでに、バプテスマのヨハネが現れ、ユダヤの荒野で

「悔い改めさない。天の御国が近づいたから」と教え、宣べ伝えていました。



そして、それを聞いた多くの人々が、

エルサレム、ユダヤ全土、ヨルダン川沿いの全地域から出て来て、

自分の罪を告白し、ヨルダン川で彼からバプテスマを受けていました。

バプテスマのヨハネが授けていたのは、悔い改めのバプテスマでした。



そこへ、イエス・キリストが、ヨハネからバプテスマを受けるために、

ガリラヤからヨルダンに来られたのです。

ヨハネは、びっくりして言いました。



「私こそ、あなたからバプテスマを受けるはずですのに、

 あなたが、私のところにおいでになるのですか」 

 

ヨハネは、なんとかして、イエス・キリストにそうさせまいとしました。

イエス・キリストは罪人ではありません。

彼は人となってくださいましたが、罪は決して犯されなかったのです。

イエス・キリストは罪そのものとなってくださいましたが、

イエス・キリスト自身のうちには、何の罪もなかったのです。

ですから、彼が悔い改めのバプテスマなどを受ける必要はないのです。

ところが、イエス・キリストは、ヨハネに答えて言われました。



「いまはそうさせてもらいたい。

 このようにして、すべての正しいことを実行するのは、

 わたしたちにふさわしいのです」

 

こうしてイエス・キリストが、

悔い改めのバプテスマを受けられて水から上がられると、

天が開け、神の御霊が鳩のように降って、イエス・キリストの上に来ました。

そして天から、こう告げる声が聞こえました。



「これは私の愛する子。私はこれを喜ぶ」



本来イエス・キリストは、ヨハネのバプテスマを受ける必要はなかったのです。

しかし、完全な人となられたイエス・キリストは、

すべての点で、私たち罪人と同じようになられたのです。

こうして、彼が自らを低くしてバプテスマを受け、

罪人のひとりに数えられたとき、

父なる神は、そのへりくだりと従順のゆえに、

天より御霊を注ぎ、声をかけられました。



イエス・キリストは、人間が通らねばならない道を、すべて通過するために、

このバプテスマを受けられたのです。

それは、まさに彼にとって正しいふさわしいことでした。



イエス・キリストは、

このように宣教活動の初めから罪人のひとりに数えられ、

十字架の道へと向かって行かれました。



私たちも、主の御心に従っていくとき、

しっかりと、十字架を負いながら福音宣教していきたいものです。

私たちが、しっかりと十字架を負うそのときに、

主は喜んで、私たちに主の御霊を注ぎ、

天より声をかけてくださることでしょう。



「あなたは私の愛する子。私はあなたを喜ぶ」と。

2016年9月12日月曜日

9月12日(月)十字架の生涯の始まり③





「だれでもわたしについて来たいと思うなら、

 自分を捨て、日々自分の十字架を負い、

 そしてわたしについて来なさい」



   ルカの福音書9章23節


大工として


イエス・キリストは、30歳のときに家を出て、宣教活動を開始されます。

それまでの間イエス・キリストは、

母であるマリヤと父のヨセフのもとで仕えられるのです。



成人してからは、大工として家族を支えていました。

イスラエルは、木の文化ではなく、石の文化なので、

大工といっても取り扱うのはほとんど石ですから、

石工と言ったほうがいいかもしれません。



ですから、イエス・キリストは、

きっと筋骨隆々とした男性的な体つきをしていたと思います。



神の子であられた方が、両親に仕え、

人々に大工として仕えながら30歳になるまで、神の時を待たれたのです。

イエス・キリストは神の時が来るまで、

ご自分で行動を開始されることはなかったのです。



もし私たちなら、両親を見、人々を見、

暗い世の中や律法主義のはびこっている宗教界を見て、

がまんできずに、すぐに行動を開始してしまうのではないでしょうか。



でもイエス・キリストは、

黙って自分の置かれた場所で、

神の時が来るまで待たれたのです。



毎日、毎日、神が置かれた場所で、同じようなくり返しの日々を送りながら…。神の御子であられた方が待たれたのです。

このとき、イエス・キリストは、

忍耐をもって、黙って静かに毎日の生活の中で、

十字架を負われていたのです。



私たちも神の時が来るまで、

主が置かれた場所で、

いま負うべき十字架を負っていきましょう。

それは目立たないかもしれません。

しかし神さまは、あなたをご覧になって、主の時を用意しておられるのです。



その時まで、静かに感謝しながら、忍耐をもって、

その場所で十字架を負っていきましょう。

イエス・キリストは言われました。



「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、

 日々自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい」(ルカ9章23節)

2016年9月11日日曜日

9/11(日) 今日のメッセージ 音声・映像

9月11日(日) 十字架の生涯の始まり②





「キリストは、神の御姿であられる方なのに、

 神のあり方を捨てることができないとは考えないで、

 ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、

 人間と同じようになられたのです。」




   ピリピ3章6節―7節


イエス・キリストの誕生


イエス・キリストがお生まれになったとき、

彼は、なんと家畜小屋で生まれたのです。

しかも、最初に布にくるまれて寝かせられた場所は、

馬の餌を入れる飼い葉桶だったのです。



ちょうどそのころ全世界の住民登録がありました。

しかもこの人口調査は、

自分の家系でもあり、血筋でもある先祖の町に帰って

登録することになっていました。



それでヨセフは、身重になっているマリヤもいっしょに連れて、

ガリラヤの町ナザレから、

ユダヤのベツレヘムというダビデの町に上って行ったのです。

彼は、ダビデの家系であり、血筋でもあったからです。



このベツレヘムで、イエス・キリストは、お生まれになりました。

マリヤの月が満ちたからです。

そのときヨセフとマリヤは、家畜小屋にいました。

宿屋は、どこもいっぱいで、

彼らを泊めてくれるところは、どこにもなかったのです。

人類の救い主としてお生まれになった方、

私たちのために、人となってくださった神の御子イエス・キリストが、

この地に誕生するときに、私たち人類は、その場所を持っていなかったのです。

家畜小屋しか、イエス・キリストのために用意しなかったのです。



しかし、実は、それこそが、イエス・キリストにふさわしかったのです。



私たちの罪の身代わりとなって、

十字架にかかるために来てくださった

イエス・キリストにふさわしかったのです。



本当なら、イエス・キリストこそ、

最高の宮殿で、最高の設備の中で出産されるべきでしょう。

しかし、それは神の御心ではありませんでした。



イエス・キリストは、ご自分を無にされました。

もっとも惨めで、みすぼらしいところに来てくださったのです。

それは、罪にまみれて、

もっとも惨めでみすぼらしくなっている人間をも救うためでした。



そして、それこそが、

イエス・キリストの何にもまして願っていたことでした。

だから、どんな暖かい布団よりも、

どんなすばらしい設備よりも、

こここそが、救い主であるイエス・キリストにふさわしいところだったのです。



なぜなら「十字架」以外に、私たち罪人を救う道はないのですから。



イエス・キリストは、このように誕生の時から十字架の道を歩いていたのです。



「キリストは、神の御姿であられる方なのに、

 神のあり方を捨てることができないとは考えないで、

 ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。」

         (ピリピ3章6節―7節)

2016年9月10日土曜日

9月10日(土) 十字架の生涯の始まり①





「十字架のことばは、

 滅びに至る人々には愚かであっても、

 救いを受ける私たちには、神の力です。」


   コリント人への手紙 第一 1章18節


キリストの十字架


あなたは、教会に行ったことはありますか。

もしまだ行ったことがないなら、ぜひ行ってみてください。



ただその時、気をつけないといけないことがあります。

それは、必ず「十字架」のある教会に行ってください。



もちろん、教会には、十字架はあるに決まっていますよね。

でも、偽物の教会には十字架はありません。



では、どうして本物の教会には「十字架」があるのでしょう。

それは、イエス・キリストが、私たちの罪の身代わりとなって、

十字架で、私たちの代わりに死んでくださったからです。

イエス・キリストのあの十字架によって、

私たちは赦され、義とされ、救われたのです。

だから、教会には、必ず「十字架」があるのです。



十字架のない教会は偽物です。

決して行かないでください。

たとえ聖書を使っていても、

キリスト教の名前を使っていても、

十字架がなければ、それは本物ではありません。



それほど「十字架」はキリスト教にとって大切で、大事なのです。

なぜなら、イエス・キリストの十字架―そこに救いがあるからです。



使徒のパウロもコリント人への手紙の中で、こう言っています。



「十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、

 救いを受ける私たちには、神の力です。」(Ⅰコリント1章18節)



「しかし、私たちは十字架につけられたキリストを宣べ伝えるのです」

 (Ⅰコリント1章23節)



「なぜなら私は、あなたがたの間で、

 イエス・キリスト、すなわち十字架につけられた方のほかは、

 何も知らないことに決心したからです。」(Ⅰコリント2章2節)

 

イエス・キリストは、

最後に十字架にかけられたときにだけ、十字架を負われたのでしょうか。

そうではありませんでした。

確かにあの荒削りの十字架を、その身に負って、

罪の身代わりになって死んでくださったのは、

3年半の宣教活動の最後の「あの時」だけでした。



しかし、彼の生涯は、その誕生のときから、すでに十字架の生涯だったのです。

神であられた方が人となったそのときから、

もうすでに十字架の生涯が始まっていました。



今回は、イエス・キリストの誕生のときのことから話を始めていきましょう。

2016年9月9日金曜日

9月9日(金) 王室の役人の息子のいやし⑤





「帰って行きなさい。あなたの息子は直っています。」


     ヨハネの福音書4章50節


主イエス・キリストは、あなたにも語られる


主イエス・キリストは、あなたにも同じことをすることが、お出来になります。



今、あなたが困難の中にいるなら、

今、あなたの家族が苦しみの中にあるなら、

ためらう事なく、主イエス・キリストのもとに来てください。



主イエス・キリストは、

私たちの不可能のかなたから、

その愛の御手を伸ばして、奇跡と勝利を与えてくださるのです。



あなたにとって、

もっとも悲しむべきことが、

あなたの家族にとって、

もっとも痛ましいく思えることが、



神の愛と現実を知る祝福の始まりになるのです。



私たちの信じている神は、それをしてくださるお方です。

2016年9月8日木曜日

9月8日(木)王室の役人の息子のいやし④






それで父親は、

イエスが「あなたの息子は直っている」と

言われた時刻と同じであることを知った。

そして彼自身と彼の家の者がみな信じた。


     ヨハネの福音書4章53節


主のことばの真実


彼がカペナウムに戻っていくために、家路を急いでいると、

向こうから彼の家のしもべがやってくるではありませんか。



しもべたちは、主人を見つけると、息せき切って言いました。



「あなたの息子さんはいやされました。完全に直られたのですよ。」



父親は大喜びしながら聞きました。



「息子はいつ直ったのだ。その時刻は。」



「きのうの7時です。」



その答えを聞いたとき、彼は驚きを隠せませんでした。



それは、まさにイエス・キリストが、

「あなたの息子は直っている」と言われた時刻だったからです。



主の力ある命のことばが語られたときと、同じ時刻に息子は直っていたのです。



主は生きておられます。

主は愛を持って、私たちの願いと叫びに答えてくださいます。



父親は喜びにあふれて大急ぎで家に帰りました。

そして、このことを家族のみんなに話したのです。

彼はもちろん、いやされた息子も、お母さんも、兄弟たちも、

家族のものはみんな、彼とともに、イエス様を信じたのです。



これが、イエスのもとに来た王室の役人に与えられた勝利でした。

死にかけた息子を抱えた父親に与えられた、すばらしい報いでした。



この息子の病気は、この家族にとって、

そして王室の役人にとって、

とっても悲惨な悲しむべきことでした。

彼らには、もう希望はなかったのです。

それどころか絶望感と無力感しか残っていませんでした。



しかし、主イエスのことを聞いたとき、

この父親に信仰が与えられ、家族に希望が与えられ、

彼らが、イエス・キリストのところに来たときに、

このもっとも悲しむべき悲劇が、

この家族にとって、もっとも喜ぶべき祝福の始まりに変わったのです。



死にかけた息子も王室の役人も、そして家族までが、永遠の命を受けたのです。

もっとも大切なものを、この病気を通して与えられたのです。

この試練を通して家族全員が、イエス・キリストを信じることができたのです。

これが何よりもすばらしい彼らへの祝福でした。

これが主です。

私たちの信じているイエス・キリストです。

2016年9月7日水曜日

9月7日(水)王室の役人の息子のいやし③






イエスは彼に言われた。

「帰って行きなさい。あなたの息子は直っています。」

その人はイエスが言われたことばを信じて、帰途についた。


     ヨハネの福音書4章50節


愛によって働く信仰


王室の役人は、

イエス・キリストの一見すると冷たい突き放すようなことばにも

決して引き下がりませんでした。

彼は息子を心の底から愛していました。

だから、何としても助けたかったのです。



そうです。彼は息子を愛していたのです。

だから、イエス・キリストの冷たく聞こえることばで、

すぐに引き下がったり、あきらめたりは出来なかったのです。



彼は、イエス・キリストにさらに近づき詰め寄って、しがみついて言いました。





「主よ。どうか私の息子が死なないうちにくだって来て下さい。」



彼は信じていました。

イエス・キリストが来てくださりさえすれば、息子は必ず直ると。

決して、息子は死にはしない、と。



父の息子に対する愛が、イエス・キリストへの信仰と一つになって働いたのです。

そのとき、イエス・キリストは、命のことばを語られました。



私たちも、彼から学ぶ必要があります。

私たちも、愛する者のために、

主に懇願しているのに、すぐに答えが来ないことがあります。

それどころか、むしろ冷たく思えるような

主のことばを聞いたりする時さえあるかもしれません。

そんなとき、これは御心ではないのだと、

すぐに、あきらめたり投げ出したりしてしまいやすいものです。



しかし、本当に、その人を愛しているならば、

そして、主に信頼し期待しているならば、

そのようなときにこそ、主の前に祈り続け、しつこいぐらいに食い下がるべきなのです。



なぜなら、愛は決して、あきらめないからです。



王室の役人の主に対する信仰と息子への愛が一つになって働いたとき、

イエス・キリストは心動かされ、命のことばを語られました。



イエス・キリストは、彼に言われました。



「帰って行きなさい。あなたの息子は直っています。」



王室の役人は、イエス・キリストのこのことばを聞いたとき、信じたのです。

今までは『とにかく来てもらえば直る』と信じていたのですが、

このときは、ただイエス・キリストのことばを聞いただけで、彼は信じたのです。



彼はイエス・キリストご自身を信じていたのです。

だから、そのキリストが語られた、この言葉だけで十分だったのです。

彼は信じました。息子は、きっと直っていると。

彼は、イエス・キリストのことばを、信じたのです。



イエス・キリストのことばには、彼を信じさせる力がありました。

命が流れていたのです。
ヨハネの福音書4章50節

2016年9月6日火曜日

9月6日(火)王室の役人の息子のいやし②






そこで、イエスは彼に言われた。

「あなたがたは、

 しるしと不思議を見ないかぎり、決して信じない。」


     ヨハネの福音書4章48節


イエス・キリストご自身を愛し信じる


王室の役人はカナにたどり着くと、

すぐにイエス・キリストのところに行き、

下ってきて息子をいやしてくださるようにと懇願しました。



イエス・キリストならばすぐに

「わかりました。行きましょう。」と言ってくださると、彼は期待していました。



ところが、主は、こう言われたのです。



 「あなたがたは、しるしと不思議を見ないかぎり、決して信じない。」



まるで突き放すかのようなことばです。

でも、これは突き放しているのではなく、

あなたがたは、私がしるしと不思議を行うから信じているのか。

私が何かをするから信じているのか。

何かをしてもしなくても、私を信じる者になりなさい。

とイエス・キリストは言いたかったのでしょう。



たとえば、こういうことです。

あなたが、もしリストラで職を失ったとき、

あなたの愛する奥さんが

「あなた、お金をもうけてこないなら、あなたなんかいてもしかたないわ。粗大ゴミよ。」

と言ったらどうでしょう。

これは、あなたでなく、あなたが儲けてくるお金が大事だということです。

ところが

「お金なんか、仕事なんか二の次よ。

 リストラされたって大丈夫。

 あなたが元気でいてくれるだけで嬉しいわ。」

と言われたら、きっと嬉しいでしようね。

これが本当の愛だからです。



イエス・キリストも、私たちと、

このような本当の愛の関係で関わりたいと願っておられるのです。



何かをしてもらえるからとか、

得になるからというだけでなく、

イエス・キリストご自身を愛し、信じる者になってほしいと、言われたのです。



そうは言っても、イエス・キリストは、

この王室の役人の死にかけている息子を、放っておくことなど出来ませんでした。

この子を直してあげることはもちろん、

それだけでなく、この王室の役人に、

もっと深く、もっと強く、主を愛し信じる信仰を与えたかったのです。

2016年9月5日月曜日

9月5日(月)王室の役人の息子のいやし①






イエスは再びガリラヤのカナに行かれた。

そこは、かつて水をぶどう酒にされた所である。

さて、カペナウムに病気の息子がいる王室の役人がいた。


     ヨハネの福音書4章1節


王室の役人


イエス・キリストは、エルサレムからサマリヤを通り、ガリラヤのカナに来られました。

このカナは、かつてイエス・キリストと弟子たちが婚礼に招かれた時に、

祝宴が1週間も続くので、終わり頃には、ぶどう酒がなくなってしまい困っていたときに、

イエス・キリストが、水をぶどう酒にされた所でした。



イエス・キリストが、カナに来られているということは、

すぐに、ガリラヤの地方に広まりました。

そして、その話を聞いて、多くの人々がイエス・キリストのところにやってきました。



その中にカペナウムという町に住んでいた王室の役人がいました。

カペナウムは「慰めの村」という意味で、

イエス・キリストが宣教の拠点にしているところでした。

カペナウムからカナまでは、10里、約40キロ近くもあり、

車のなかった当時は、1日近くかかる距離でした。

それでも、この王室の役人は、1日近くかけてイエス・キリストのところに来たのです。



それは、この王室の役人の息子が病気にかかっていたからです。

しかも死にかけていたのです。

この王室の役人は立場もあり、おそらくお金もあり経済力もあったでしょう。

父である彼は、あらゆる人脈と経済力を用いて、

名医とも呼ばれる人たちを呼び、高い薬も投薬し、

何とかしてこの子を助けようとしたに違いありません。

彼は惜しみなくお金をかけ、

彼が今まで培ってきたありとあらゆる人脈を使い、

彼の社会的立場も利用して、

何とかして、この愛する息子を助けようとしたことでしょう。

しかし直りませんでした。

どんなにしても、だめだったのです。

どんなに手を尽くしても無駄だったのです。

息子は直るどころか、ますます悪くなる一方で、

もう死を待つかもしれないというところまで追い込まれていました。



そのとき、イエス・キリストが、ガリラヤのカナに来ておられるという話を聞いたのです。

このイエス・キリストという方は、

かつて、このカナで水をぶどう酒に変えられ、

いろんなところで、あらゆる病気をいやし、らい病人を清め、

しるしと不思議の業を行いながら、

人々を助けて救っておられるということを耳にしたのです。



王室の役人は、そのことを聞いたとき、

すぐに、このイエス・キリストという方のところに行こうと決心したのです。

そうすれば、きっと助けてくださる。

きっと息子を直してくださる。

私の愛する息子をいやし、命を救いに、

きっと、ここまで来てくださると信じたからです。

そして、そう思ったときには、

もう彼は、しもべたちにカナまでの旅支度を命じていました。

気づいたときには、彼はもうカナに向かっていました。



彼は愛する息子のために、

イエス・キリストのところに、期待と信仰を持って出かけて行ったのです。



私たちの人生にも、

自分の持っているものを、どんなに使っても、

全く役に立たないで、もうどうにもならない問題が許されることがあります。

どんなにお金があっても、社会的立場や権力があっても、知恵や才能や能力があっても、

それで、どうすることもできないことがあります。

そんなとき、私たちは、もうおしまいだと思い、悲観し絶望してしまうのです。



特に自分の愛する者が苦しんでいるときに、

どんなに愛していても、自分が何もしてあげることが出来ないとわかったときに、

私たちは、言葉にならないやるせなさを覚えるのではないでしょうか。



しかし、そんなときこそ喜びましょう。

なぜなら、その時こそ、まさに私たちが生きて働かれる主イエスにお会いし、

今も生きておられる神を体験する用意ができたときだからです。

もし私たちが主を知らず、神が、いらっしゃらないならば、もうおしまいです。

しかし、そうではありません。

私たちには助けてくださる主イエス・キリストがおられるのです。

私たちを愛し、不可能を可能にしてくださる神がおられるのです。

確かにイエス・キリストは、今も生きて働いて、私たちを助け救い出してくださるのです。

ですから、私たちは失望することはありません。



もし、あなたが今、自分でどうすることもできず、

愛する者のために、心を引き裂かれるような思いの中に痛んでいるなら、

この王室の役人のように、

今すぐ主イエス・キリストのもとに来てください。

この方は、あなたの手の届かないところに愛と奇跡の手を伸ばし、

救い助けだしてくださるのです。



あなたの祈りと願いを聞いて、必ず答えてくださるのです。

2016年9月4日日曜日

9/4(日)今日のメッセージ 音声・映像


9月4日(日)ベテスダの池⑦






すると、その人はすぐに直って、床を取り上げて歩き出した。


     ヨハネの福音書5章9節


全く新しい人生


38年間、彼を縛っていた床を、

主イエス・キリストは、起きて取り上げて歩きなさい、と言われました。

そのことばに従って、その床を取り上げた時、まったく新しい彼の人生が始まったのです。



主は、あなたにも言われます。



「床を取り上げて歩きなさい。」と。



あなたは、病気で床に伏せってはいないかもしれません。

しかし、きっとあなたにも、今まであなたが生きてきた場所があるはずです。

それは窮屈で、あなたを締めつけてきた場所かもしれません。

もしかすると、逆にある人には、居心地の良い場所なのかもしれません。

どちらであったとしても、

主は、今までのあなたの人生を縛ってきた過去のものから、

あなたを解き放たれようとするのです。

全く新しい人生のために。



あなたに不信仰を与えたあなたの古い考えや肉の性質から解放されて、

主のことばに従って歩む、全く新しい信仰の歩みを始めてください。



今まであなたの体験したことのない世界が、あなたを待っています。

主は、あなたのところに来て、あなたにことばを与え、

今まで、あなたが、どんなに努力しても不可能だったことを、なしてくださるのです。

なぜなら主は、あなたを愛しておられるからです。

2016年9月3日土曜日

9月3日(土)ベテスダの池⑥





すると、その人はすぐに直って、床を取り上げて歩き出した。


     ヨハネの福音書5章9節


主のことばで十分


主イエス・キリストが取られた方法は、
この病人が考えていたのとは全く違う方法でした。

主イエス・キリストは、池の水が動くまで待つことをされませんでした。

この人を水の中に運ぶこともされませんでした。

主のことばだけで、十分だったのです。



あなたの中に、何年間も持ち続けている方法がありませんか。

こうでなければいけないとか、こうなればきっと直るとか、

あの人がこうしてくれさえすれば、うまくいくのにとか思っていませんか。



何かに縛られ束縛されていませんか。

過去のことに、こだわり続けていませんか。



主が事をなされるのに、それが必要でしょうか。

主は、私たちの方法や考えに縛られる方なのでしょうか。



心を柔らかくして、主イエス・キリストのことばに聞き入りましょう。

主イエス・キリストのことばで十分です。

主の御声が語られたなら、それは必ず成るのです。

私たちは、ただ信じて従っていけばいいのです。

それは難しいことではありません。

なぜなら主は、私たちに出来ないことは言われないからです。

いえ、今あなたが出来ないと思っていても、

主イエス・キリストが語られたならば、

そのときから、あなたには、それが出来るようになるのです。



この病人が38年間伏せっていた床から立ち上がれたように、

今まで全く不可能であったことも、

主イエス・キリストは、私たちのうちに成してくださるのです。

2016年9月2日金曜日

9月2日(金)ベテスダの池⑤






「よくなりたいか」


     ヨハネの福音書5章6節


主の時


あなたにも長い間戦い続けている問題が、あるかもしれません。

もう何十年も祈り続けていることが、あるかもしれません。

あなたの愛する人が、なが〜い間、病気で苦しみの中を通られているかもしれません。

長すぎる戦いに疲れを覚え、実は心の中で、もうあきらめていたかもしれません。

この祈りは、聞かれないのかもしれない。

きっと、この病気は私の十字架なのだ、

そう思われているあなたにも、主は言われます。



「よくなりたいか」



決してあきらめないでください。

主は、あなたに語られるのです。

そして、主が語られたなら、

そのことばは、あらゆる状況を一瞬にして覆すことが、お出来になるのです。



なぜ、この病気の人のところへ、38年目にイエス・キリストは来られたのでしょうか。

5年目でもなく、10年目でもなく、なぜ38年目だったのでしょうか。

私にはわかりません。

でも、これが主の時でした。

確かに、このときが主の時だったのです。

あなたにも同じように、主の時が来るのです。

主が、はっきりと、あなたに語ってくださっる時が来るのです。

確かに、忍耐し待たなければならない時が、私たちにはあります。

でも必ず、主の時は来ます。

そして、今、これを読んでいるあなたにも、主の時は来ているのです。

まさに今、主はあなたに語っておられます。



「よくなりたいか」と。

2016年9月1日木曜日

9月1日(木)ベテスダの池④






イエスは彼に言われた。

「起きて、床を取り上げて歩きなさい。」


     ヨハネの福音書5章8節


起きて、床を取り上げて歩きなさい


ところがイエス・キリストは、彼の答えには何も言われずに、

彼の期待していたこととは、全く違うことを言われました。

イエス・キリストは、彼に、こう言われました。



「起きて、床を取り上げて歩きなさい」



主は、池は必要ではない。

水が動かなくても大丈夫だ。

私は、あなたの考えている方法とは、全く違う方法であなたを直そう。

あなたが私のことばを聞くなら、

私の権威あることばを聞いて従うなら、あなたは、今、直る、と言われたのです。



「起きて、床を取り上げて歩きなさい」と



イエス・キリストの口から、このことばが解き放たれた瞬間、

この38年間、床に伏せっていた人は直ってしまいました。



そして、主が言われたとおりに床を取り上げて歩きだしたのです。



イエス・キリストのことばには力があります。

イエス・キリストには権威があるからです。

イエス・キリストが語られたなら、すべての者は、そのことばに従わねばなりません。

病気も、悪霊も、自然も、どのような法則もすべてがです。