2016年8月26日金曜日

8月26日(金)生まれつきの盲人②






イエスは答えられた。

「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。

 神のわざがこの人に現われるためです。」



     ヨハネの福音書9章3節


神のわざが現われるため


生まれつきの盲人にイエス・キリストが目を留められて立ち止まると、

イエス・キリストが声をかけようとする前に、

弟子たちのほうが先に口を開きました。

弟子たちは、イエスに、彼について質問して言いました。



「先生。彼が盲目に生まれついたのは、誰が罪を犯したからですか。

 この人ですか。その両親ですか。」



何とひどいことを言うのだろうか。

そう思われると思います。

きっと弟子たちの声は、この盲人にも聞こえたことでしょう。

何と思いやりのない、何と愛のないひどいことばでしよう。

これでも弟子なのかと思いたくなりますね。



でも弟子たちが、こういうのも無理のないことだったのです。

というのは、

当時の伝統的な考え方では、肉体に何かの問題があるのは罪の報いである、

というふうに考えられていたからです。

弟子たちの言葉は、当時の人たちの代弁でしかなかったのです。



もう何度も、この盲人が聞いた言葉でした。

お前が罪を犯したのか、それとも両親が罪を犯したのか。



生まれついたら盲目だったのに、

生まれてから今まで、散々聞き続けてきた言葉でした。

そして何度聞いても、何も変わりはしない言葉でした。

何も生み出さない、ただ失望と暗い心にさせるだけの言葉でした。



きっと、この盲人は弟子たちの言葉を聞いたとき、

またかと思ったことでしょう。



ところが、イエス・キリストは、全く違うことを語られたのです。

今まで、誰からも聞いたことのないことを、語られたのです。



「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。

 神のわざがこの人に現われるためです。」と。



この盲人は驚きました。

みんなお前が悪い、両親の罪だと責任の追及ばかりして、

何の解決も希望も語ってはくれなかったのです。



ところがこの方、イエス・キリストは、

あなたの罪でも、あなたの両親の罪でもないと、はっきりと言われたのです。



世界で、ただ一人罪に定めることのできる方が、

あなたの罪でも、両親の罪でもない、と言ってくださったのです。

それだけでも驚きでした。

それだけでも、この盲人は嬉しかったでしょう。

今まで散々自分で、どうすることも出来ないことで、責められ続けてきたのに、はじめて彼は、まことの愛にふれたと思ったことでしょう。



そのうえ、イエス・キリストは、こう付け加えられたのです。



「神のわざがこの人に現われるためです。」と。



彼が今まで聞き続けてきた言葉とは、全く逆でした。

あなた方の罪ではない、というだけではありません。

盲人に生まれついたのは、神のわざが現われるため、

神の栄光を、そのことを通して見るためだと言われるのです。



今まで、これさえなければ、目さえ見えればと思っていたのに、

イエス・キリストは、

目が見えなかったこと、盲人であったことはマイナスではなく、

まさに神のわざが現われるために必要だったのだ、と言って下さったのです。



何という愛と希望に満ちたことばでしょう。



生まれつきの盲人が、彼の人生の中で、はじめて聞いたことばでした。

彼の目は見えなくても、

彼にはイエス・キリストの表情も、まなざしも体中に感じながら、

イエス・キリストに、彼の心と思いは引き寄せられていったのです。

この盲人は生まれてはじめて心のそこから希望を持ちました。

信仰を持ちました。

この方の言われることなら、何でも従おう。

この方になら、私はすべてをかけて従おう、そう思ったのです。



そう思っていると、イエス・キリストは地面につばきをして、

そのつばきで泥を作られ、

そして、その泥を盲人の目に塗って言われたのです。



「行って、シロアムの池で洗いなさい。」と。



なぜ、このときイエス・キリストは、つばを吐いて泥を作られたのでしょう。

まして、その泥を、なぜこの盲人の目に塗られたのでしょうか。

私にはわかりません。



ある神学者の方が、注解書の中で、

泥の中には目に良い成分があると書いておられました。

もしかしたら、そうなのかもしれませんが、何か無理を感じます。

私は、なぜイエス・キリストが泥を作って、

この盲人の目に塗ったのかは別にわからなくてもいいと思うのです。



大切なことは、この盲人が、そうされても全く嫌がりもせず疑問も持たずに、

イエス・キリストのなすがままに任し、

そして、イエス・キリストのことばに従ったということなのです。

もし私がこんなことをしたら、相手は怒ったかもしれません。

でもこのとき、この盲人は怒るどころか、

質問もせず、すぐイエス・キリストのことばに従うのです。

それほどに、主のことばに彼は感動していたのです。

生まれて初めて本物の愛にふれて、生まれて初めて、彼は希望を持ったのです。

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