2016年8月31日水曜日

8月31日(水) ベテスダの池③





イエスは彼が伏せっているのを見、

それがもう長い間のことなのを知って、彼に言われた。

 「よくなりたいか。」


     ヨハネの福音書5章6節


よくなりたいか


べテスダの池の周りには、たくさんの病人がいました。

その中に、38年もの間、病気で伏せっている人がいました。

イエス・キリストは彼を見たとき、

すぐに、それがもう長い間のことなのが、わかられたのです。

イエス・キリストは、彼に言われました。

 
「よくなりたいか」



よくなりたいに決まっているじゃありませんか。

そう思われますか。

私もかつて若い学生の頃、そう思いました。

けれども牧師になり、30年近くたった今は、

イエス・キリストが、こう聞かれたのがわかるような気がします。



考えても見てください。

38年間、彼は病気で伏せっていたのです。

生まれつきだったとしても、もう38歳です。

病気になったのが、もし成人してからなら、もう58歳、なんと60近いことになります。

私がいま、57歳なので、ちょうど私ぐらいですね。

長すぎました。

あまりにも長すぎたのです。

池の周りに来てはいるものの、

もう彼の中には、あきらめの気持ちが、きっと強くあったことでしょう。



最初のうちは、今度こそ池の水が動いたら、まず初めに飛び込もう。

そしたら直るんだ、と期待しながら、待っていたことでしょう。

でも、一回、二回、三回、四回と、いつも誰かが先に行ってしまい、

一年、二年、五年、十年と経つうちに、

もう彼の中には、

これで一生終わるのではないか、というあきらめめのようなものがあったことでしょう。



でも、そこにイエス・キリストは来られ、彼に言われたのです。



「よくなりたいか」と。



何年もの間、もう聞いたこともなかったことばを彼は聞きました。

そのとき、この38年間病気で伏せっていた人の中に、かすかな希望がともり始めたのです。



もしかしたら、この人が池の水が動くとき、連れて行ってくれるかもしれない。

本当に久しぶりに、彼は病気が直るかもしれないという期待を持ったのです。

イエス・キリストの言葉を聞いて、彼のうちに希望が与えられ、信仰が芽生えたのです。

病人は答えました。 



「主よ。私には水がかき回されたとき、池の中に私を入れてくれる人がいません。

 行きかけると、もう他の人が先に降りていくのです」



素直に「はい、直りたいです」とは答えられませんでした。

それほどに彼は、きっと痛んでいたのでしょう。

今までの悔しさ、悲しさ、苦しさを、

このことばに一気につめて、イエス・キリストにぶつけたのです。

この人が私を池の中に連れて行ってくれて直してくれるかもしれない、

という期待と信仰を込めて…。

2016年8月30日火曜日

8月30日(火)ベテスダの池②







さて、エルサレムには、羊の門の近くに、

ヘブル語でベテスダと呼ばれる池があって、五つの回廊がついていた。

その中に大ぜいの病人、盲人、

足のなえた者、やせ衰えた者たちが伏せっていた。


     ヨハネの福音書5章2・3節


ベテスダの池


エルサレムは、お祭りを見に来ている人々で、ごった返していました。

弟子たちも、イエス・キリストといっしょにお祭りに来れたので、

とても嬉しくて、楽しみにしていました。

ところが、イエス・キリストは、お祭りなどには目もくれず、

まっすぐにべテスダと呼ばれていた池のところに行かれたのです。

そこにはお祭りなどとは全く関係のない人々がいました。



このべテスダという池の周りには、5つの回廊がついており、

そこに大勢の病人、盲人、足なえ、やせ衰えた者が伏せっていました。



主の使いが、時々この池に降りてきて、水を動かすのですが、

そのとき最初に入った者は、どのような病気にかかっていてもいやされていたからです。



イエス・キリスチは、そのべテスダの池に行かれました。

お祭りに浮かれている人々の傍らで、

病で苦しみ痛んでいる人々のところへ、主はまっすぐに行かれたのです。

これが、私たちの主イエス・キリストです。



もし今あなたが、困難や苦しみの中で痛んでいるなら、

主はあなたのところに来てくださいます。

周りの人々は、お祭りに心を奪われ、あなたのことなど忘れているかもしれません。

いえ、たとえ心に思っていても、

仕事が忙しすぎて、あなたのところに来れないかもしれません。

やらねばならないことがありすぎて、来たくても来れない人もいるでしょう。



しかし、イエス・キリストは、すべてのことをおいて、

今、痛みの中にいるあなたのところに来られるのです。

もう、誰も気にかけなくなってしまったあなたのところに、真っ直ぐ来てくださるのです。



今、あなたが、どんな病気にかかっていたとしても、あきらめないでください。

今、あなたが、どんなに孤独の中にあったとしても、失望しないでください。

今、あなたが、どのような困難の中にあったとしても、落胆しないでください。

私たちには、主イエス・キリストがおられるのです。

生命をかけて私たちを愛し、私たちのところに来てくださる方がおられるのです。

主イエスは、今あなたのところに来てくださっているのです。



イエス・キリストは、べテスダの池に行き、ひとりの人に目を留められました。

2016年8月29日月曜日

8月29日(月)ベテスダの池①







その後、ユダヤ人の祭りがあって、イエスはエルサレムに上られた。


     ヨハネの福音書5章1節


あなたのいる町には、お祭りがありますか。

日本中、世界中から人々集まってくるようなお祭りがありますか。



私のいる長崎では、秋の10月に「長崎くんち」という祭りがあります。

これは偶像の祭りですが、毎年たくさんの人々でにぎわいます。



イスラエルにもお祭りがありました。

「過越の祭り」と「仮庵の祭り」と「七週の祭り」というのは、

その中でも特に大きなもので、三大祭と言われていました。

都のエルサレムに、イスラエル中から、そして世界中から人々がやってきました。



これから、お話するのは、そのお祭りのときの出来事です。

このお祭りが「過越の祭り」だったのか、

それとも他のお祭りだったのかは、確かなところはわかりません。

天国に行ったとき、イエス・キリストに聞いてみましょう。

でも、たくさんの人がお祭りを見るために、都のエルサレムに来ていたことは確かでした。



イエス・キリストも弟子たちを連れて、

このユダヤ人の祭りのときに、エルサレムに上られたのです。

2016年8月28日日曜日

8/28 (日)今日のメッセージ 音声・映像

8月28日(日) 生まれつきの盲人






イエスは答えられた。

「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。

 神のわざがこの人に現れるためです。」


     ヨハネの福音書9章3節


あなたにも主は語られる


 生まれつきの盲人はどんなに自分で頑張ってみても、努力しても、

目を直すことはできなかったのです。

それは、彼に背負わされた生まれながらにしての強いられた十字架でした。

しかし、主イエスは、

そこに来られて復活の力を持って

彼の目を見えるようにされたのでした。



あなたにも同じように、自分ではどうすることもできない問題があるかもしれません。

どんなに努力しても、頑張っても、もうどうしようもない、

ということがあるかもしれません。

これが自分のスタイルなのだと、運命なのだとあきらめていることがあるかもしれません。



でも、そんなあなたにも、主イエス様は目を留めて、時間と心を割いてくださるのです。

主は、この盲人に語られたように、あなたにも語られます。

人々の冷たいまなざしと、愛のないことばの中で、

自分を責め、人を責め、疲れ果てて何の解決も見出せないでいるあなたに、

主は語ってくださるのです。

希望を与えることばを。

愛にあふれた命のことばを。



この方のことばに耳を傾けて、信仰をもって応答しましょう。

主は驚くばかりの恵みをもってあなたに答え、奇跡のみ手をもって、

あなたにも、あなたの愛する家族や友人たちにも救いといやしを現わしてくださるのです。



主イエス様はあなたに語られます。



「このことが許されたのは、

 あの人が悪いのでも、この人が悪いのでも、この人が問題なのでもない。

 まして、あなたの罪でもありません。

 それはただ、神のみわざがこのことを通して現れるためです。

 神の栄光をあなたが見るためです。」と。


2016年8月27日土曜日

8月27日(土) 生まれつき盲人③





「行って、シロアム(訳して言えば遣わされた者)の池で

 洗いなさい。」

そこで、彼は行って、洗った。

すると、見えるようになって、帰って行った。


     ヨハネの福音書9章7節


従順がもたらす祝福


生まれつきの盲人は、イエス・キリストから泥を目に塗られて

「行って、シロアムの池で洗いなさい」と言われて、すぐに従いました。



彼は行って、洗ったのです。

すると、どうでしょう。彼の目は見えるようになったのです。



彼はシロアムまでの道を、今までもきっと行ったことがあったでしょう。

けれどもこの日、目に泥をつけながら、少し興奮気味に

シロアムに向かっていく彼を、人々はどんな目で見ていたことでしょう。

中には笑う人も、馬鹿にする人もいたかもしれません。

でも彼は行くことを止めませんでした。

 

彼があまりに急いで行くので、

途中でぶつかってしまう人がいたかもしれません。

でも彼は、そんなことぐらいでくじけませんでした。

彼は生まれてはじめて聞いたことばによって、

今や信仰の人とされていたのです。

シロアムに向かって行ったのです。

でも注意してみて下さい。

シロアムで洗えば目は見えるようになるとも、

目が良くなるとも言ってはいないのです。

ただ、シロアムの池に行って洗いなさい。と言われただけでした。



しかし、この盲人は信じたのです。

そしてイエス・キリストのことばに、ただ従ったのです。

その時、奇跡が起こったのです。



彼がイエス・キリストのことばの通りに従って

シロアムの池に行って、洗ったときに

主の奇跡は起こりました。



この盲人は、生まれて初めて見えるようになりました。

世界には色があってカラーだと知ったのです。

彼の人生に運命とあきらめていたことが、

今、神の奇跡の手によって可能となったのです。



笑われながら、馬鹿にされながら、

人とぶつかり倒れながら通ってきた道を、

今度は踊るようにして、彼は歩いていったのでしょう。

いや走っていたかもしれません。

それとも、見える世界に驚きながら、

何度も、何度も立ち止まっては進んでいったでしょうか。

嬉しくて、嬉しくて仕方なかったでしょう。

見えるものすべてが新しく、

心がはちきれるぐらい感動でいっぱいだったでしょう。



そしてイエス・キリストへの、

ことばに出来ないほどの感謝と賛美が彼の内側からあふれていたことでしょう。



これが私たちの主、イエス・キリストです。

これが聖書に書かれているイエス・キリストの姿です。

イエス・キリストは、この生まれつきの盲人に目を留めて、ことばを与え、

従った盲人の目を開けられたように、

私たちにも目を留めて、ことばを与え、

すばらしい奇跡といやしをなして下さるのです。

2016年8月26日金曜日

8月26日(金)生まれつきの盲人②






イエスは答えられた。

「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。

 神のわざがこの人に現われるためです。」



     ヨハネの福音書9章3節


神のわざが現われるため


生まれつきの盲人にイエス・キリストが目を留められて立ち止まると、

イエス・キリストが声をかけようとする前に、

弟子たちのほうが先に口を開きました。

弟子たちは、イエスに、彼について質問して言いました。



「先生。彼が盲目に生まれついたのは、誰が罪を犯したからですか。

 この人ですか。その両親ですか。」



何とひどいことを言うのだろうか。

そう思われると思います。

きっと弟子たちの声は、この盲人にも聞こえたことでしょう。

何と思いやりのない、何と愛のないひどいことばでしよう。

これでも弟子なのかと思いたくなりますね。



でも弟子たちが、こういうのも無理のないことだったのです。

というのは、

当時の伝統的な考え方では、肉体に何かの問題があるのは罪の報いである、

というふうに考えられていたからです。

弟子たちの言葉は、当時の人たちの代弁でしかなかったのです。



もう何度も、この盲人が聞いた言葉でした。

お前が罪を犯したのか、それとも両親が罪を犯したのか。



生まれついたら盲目だったのに、

生まれてから今まで、散々聞き続けてきた言葉でした。

そして何度聞いても、何も変わりはしない言葉でした。

何も生み出さない、ただ失望と暗い心にさせるだけの言葉でした。



きっと、この盲人は弟子たちの言葉を聞いたとき、

またかと思ったことでしょう。



ところが、イエス・キリストは、全く違うことを語られたのです。

今まで、誰からも聞いたことのないことを、語られたのです。



「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。

 神のわざがこの人に現われるためです。」と。



この盲人は驚きました。

みんなお前が悪い、両親の罪だと責任の追及ばかりして、

何の解決も希望も語ってはくれなかったのです。



ところがこの方、イエス・キリストは、

あなたの罪でも、あなたの両親の罪でもないと、はっきりと言われたのです。



世界で、ただ一人罪に定めることのできる方が、

あなたの罪でも、両親の罪でもない、と言ってくださったのです。

それだけでも驚きでした。

それだけでも、この盲人は嬉しかったでしょう。

今まで散々自分で、どうすることも出来ないことで、責められ続けてきたのに、はじめて彼は、まことの愛にふれたと思ったことでしょう。



そのうえ、イエス・キリストは、こう付け加えられたのです。



「神のわざがこの人に現われるためです。」と。



彼が今まで聞き続けてきた言葉とは、全く逆でした。

あなた方の罪ではない、というだけではありません。

盲人に生まれついたのは、神のわざが現われるため、

神の栄光を、そのことを通して見るためだと言われるのです。



今まで、これさえなければ、目さえ見えればと思っていたのに、

イエス・キリストは、

目が見えなかったこと、盲人であったことはマイナスではなく、

まさに神のわざが現われるために必要だったのだ、と言って下さったのです。



何という愛と希望に満ちたことばでしょう。



生まれつきの盲人が、彼の人生の中で、はじめて聞いたことばでした。

彼の目は見えなくても、

彼にはイエス・キリストの表情も、まなざしも体中に感じながら、

イエス・キリストに、彼の心と思いは引き寄せられていったのです。

この盲人は生まれてはじめて心のそこから希望を持ちました。

信仰を持ちました。

この方の言われることなら、何でも従おう。

この方になら、私はすべてをかけて従おう、そう思ったのです。



そう思っていると、イエス・キリストは地面につばきをして、

そのつばきで泥を作られ、

そして、その泥を盲人の目に塗って言われたのです。



「行って、シロアムの池で洗いなさい。」と。



なぜ、このときイエス・キリストは、つばを吐いて泥を作られたのでしょう。

まして、その泥を、なぜこの盲人の目に塗られたのでしょうか。

私にはわかりません。



ある神学者の方が、注解書の中で、

泥の中には目に良い成分があると書いておられました。

もしかしたら、そうなのかもしれませんが、何か無理を感じます。

私は、なぜイエス・キリストが泥を作って、

この盲人の目に塗ったのかは別にわからなくてもいいと思うのです。



大切なことは、この盲人が、そうされても全く嫌がりもせず疑問も持たずに、

イエス・キリストのなすがままに任し、

そして、イエス・キリストのことばに従ったということなのです。

もし私がこんなことをしたら、相手は怒ったかもしれません。

でもこのとき、この盲人は怒るどころか、

質問もせず、すぐイエス・キリストのことばに従うのです。

それほどに、主のことばに彼は感動していたのです。

生まれて初めて本物の愛にふれて、生まれて初めて、彼は希望を持ったのです。

2016年8月25日木曜日

8月26日(木)生まれつきの盲人






またイエスは道の途中で、生まれつきの盲人を見られた。


     ヨハネの福音書9章1節

道の途中で


イエス・キリストは、いつものように弟子たちとともに歩いていました。

どこに行こうとしていたのかは、わかりません。

その道の途中に一人の生まれつきの盲人がいたのです。

 もしあなたなら、こんな時どうしますか。

立ち止まって、この盲人に声をかけられますか。

おそらく多くの方々は、少しだけ立ち止まって彼に目を留めて、

やっぱり目的地に向かって歩き出す人が多いのではないでしょうか。



 イエス様は、どうされたでしょう。

彼は立ち止って、この生まれつきの盲人に目を留め、

ことばをかけ、

そして彼の人生の中に入っていかれました。

この生まれつきの盲人は、イエス様に出会って全く新しい人生が始まるのです。



 イエス様は暇だったのではありません。

目的もなくぶらぶらしていたのでもありません。

はっきりと目的を持って歩いておられました。

その彼の歩みの中で、一人の痛んだ生まれつきの盲人が、視覚の中に入ってきたのです。

盲人のほうからイエス様に向かって、求めたわけではありませんでした。

しかしイエス様は放っておけなかったのです。

イエス様は立ち止って、この盲人に声をかけられました。

時間をかけ、心をかけ、この盲人の目も心も人生もいやされたのです。



これが、私たちの信じているイエス様です。

これが聖書に書かれているイエス様です。



あなたも自分の力で、

もうどうすることもできない状況の中で、立ちすくむことがあるかもしれません。

にっちもさっちもいかなくなって、

あきらめて、心の中で座り込んでしまうこともあるでしょう。

でも覚えて欲しいのです。

イエス様は、そのあなたのところに来られるのです。

あなたのために時間を割いて来て下さるのです。

心をかけて命のことばをかけて下さるのです。

イエス様のことばには力と愛があります。

そのことばをあなたにかけて下さるのです。


2016年8月24日水曜日

8月24日(水) カナの結婚式⑤〜イエスの行われた最初の奇跡





ガリラヤのカナで婚礼があって、

そこにイエスの母がいた。


     ヨハネの福音書2章1節

聖書のマリヤ


ところで、

カナの結婚式が書かれているヨハネの2章の聖書の箇所は、

カトリック教会が、

マリヤのおとりつぎということの

聖書的根拠にしているところです。



イエス・キリストは、

母マリヤが頼んだ時、聞いてくださいました。

だからマリヤに頼めば

イエス・キリストは必ず聞いてくださるのです。

と言うのです。



はたして本当にそうなのでしょうか。

この箇所は、そんなことを言っているのでしょうか。



確かに私たちは、マリヤから多くの学ぶべきことがあります。

マリヤはイエス・キリストを信頼していました。

マリヤのイエス・キリストに対する信仰からは

多く学ぶべきことが、聖書には書かれています。



マリヤの謙遜、マリヤのイエスへの信仰等々

しかし、

この時イエス・キリストが、水をぶどう酒に変えられたのは、

マリヤが頼んだからではありません。



主イエスは、はっきりとマリヤに言われたのです。



「あなたは私と何の関係があるのでしょう。」



イエス・キリストは、マリヤが頼んだとき、

すぐに行動は起こされませんでした。

主の時を待っておられたのです。

そして主の時が来たときに、奇跡を行われたのです。

イエス・キリストのことばに従う者たちの従順を通して、

水をぶどう酒に、最初の変奇跡を行われたのです。



ある方々は言われます。

イエス・キリストに直接お祈りするのは申し訳ない。

まずマリヤ様にお願いして

イエス・キリストに頼んでもらおうと。



それは間違いです。



誰よりも聖書に書かれているマリヤが、

一番そのことを悲しむことでしょう。



もし、それを願い、

そう語るマリヤがいるとしたら、

それは聖書のマリヤではありません。

マリヤを名乗る偽りの力なのです。



イエス・キリストは、

あなたが直接イエス・キリストのところに来て

イエス・キリストに求め、願い、祈るのを待っておられます。



そして、

聖書に書かれている本物のイエスの母に選ばれたマリヤも

そのことを望んでいるのです。



私たちと神さまの仲介者は、ただ一人、

イエス・キリスト以外にはいないのですから。



マリヤは確かに、イエスの母として選ばれました。

それはすばらしい恵みでした。

しかし、

それは私たちのところに来て人となってくださった方の、

人の子としてのイエスの母になられた

ということです。

あくまでも、人としてイエスの母になられたのでした。



神の母になったのではありません。



神のひとり子イエス・キリストには、

母はいないのです。



マリヤは、

人となってくださったイエスの母ではありましたが、

神の母では決してありませんでした。



聖書に書かれているマリヤは、

イエス・キリストを信頼していました。

そしてこう言いました。



「あの方が言われることは、

 何でもしてあげてください。」



私たちはイエス・キリストのことばに、

あの手伝いたちのように、単純に従うべきなのです。

2016年8月23日火曜日

8月23日(火)カナの結婚式④〜イエスの行った最初の奇跡





イエスはこのことを

最初のしるしとしてガリラヤのカナで行い、

ご自分の栄光を現された。

それで、弟子たちはイエスを信じた。


     ヨハネの福音書2章11節

水がぶどう酒に?


宴会の世話役が、くまれた水を飲み干すと、

何とそれはぶどう酒になっていました。

もちろん世話役は、それが水だったとは知りません。

彼は、思わずも花婿を呼んで言いました。



「だれでも初めに良いぶどう酒を出し、

 人々が十分飲んだところになると、

悪いものをだすものだが、

あなたは良いぶどう酒をよくも今までとっておきました。」



確かに婚礼が一週間も続くので、

最後のほうになると、ぶどう酒が足りなくなって、

人々が酔ったころには

悪いものを出すことがよくありました。

ですから、この世話役は思わずも花婿をほめたのでした。

しかし花婿は誰がぶどう酒をとっておいてくれたのか、

知らなかったのです。

まして、本当は足りなかったのに、

イエス・キリストが、

水をぶどう酒に変えてくれたということは

何も知らなかったのです。



イエス・キリストは、

花婿も宴会の世話役も知らないところで奇跡を行ない、

水をぶどう酒に変えて、

最初の神の子としてのしるし、つまり奇跡を行われたのです。



でもあの手伝いたちだけは

イエス・キリストが、

水をぶどう酒に変えたことを知っていました。

イエス・キリストのことばに従って

水を水瓶に満たし、くんで持って行った手伝いたちだけは

知っていたのです。



私たちが主のことばに従うとき、

私たち自身が神の栄光を見ることができ、

またそれに携わることができるのです。



確かに、主の奇跡を通して、

多くの人々が祝福を受け、恵みを受けるでしょう。

しかし、その時、

それがどのようにしてなされたかを知っているのは

主に従った者たちなのです。



私たちも主に従うことを通して、

さらに主の栄光を見させていただき、

主がどのようにして、

ご自身の栄光の御業をなされたかを

知ることのできる祝福を受けていきましょう。



それは従うものだけが受けることの出来る恵みなのです。



2016年8月22日月曜日

8月22日(月)カナの結婚式③〜イエスの行った最初の奇跡














イエスは彼らに言われた。

「さあ、今くみなさい。

 そして宴会の世話役のところに

 持って行きなさい。」

彼らは持って行った。


     ヨハネの福音書2章8節



従ったお手伝い

しばらくするとイエス・キリストは、

お手伝いの人たちに言いました。



ついに主の時が来たのです。



「水瓶に水を満たしなさい。」



それで彼らは、水瓶を縁まで水で一杯にしました。

その結婚式があった場所には、

大きな石の水瓶が、6つ置いてありましたが、

彼らは6つとも全部を水で満たしたのでした。



でも考えてみてください。

足りないのはぶどう酒なのです。

水をいっぱいにしたところで、いったい何になるのでしょう。

きっとお手伝いの人たちも怪訝に思ったことでしょう。



しかし彼らは、イエス・キリストのことばに従いました。

どうして水を入れるのですかと言って文句を言って、

質問をしたりするのではなく、

とにかくイエス・キリストの言われるままに、

彼らはしたのです。

彼らはイエス・キリストに、

イエス・キリストの言われたことばに、

すぐに従ったのです。



すぐに従った彼らに、

さらにイエス・キリストは言われました。



「さあ、今くみなさい。

そして、宴会の世話役のところに持って行きなさい。」



彼らは持って行きました。

今度も彼らは、すぐに従ったのです。

いろいろ言わないで、

イエス・キリストの言われたままに従ったのです。



その時、奇跡が起きました。



私たちは時々主が語ってくださらないとか、

主が何を言っているのかわからないということがあります。

確かに主は沈黙され、私たちを待たされるときがあります。



しかし多くの場合、この手伝いたちのように、

すぐに従うことをしないで、

あれこれと言い訳をして、

文句を言っていることが多いのではないでしょうか。



もし私たちがすぐに従うなら、

さらに主は次の示しや語りかけを与えてくださるのです。



私たちがまず、いま語られていることに従わなければ、

主は、その次のことを語られないのです。



お手伝いの人たちが、

すぐに従ったとき、

主は、さらに次のことを語られたのでした。






8/22(月) 今日のみことば 映像・音声


2016年8月21日日曜日

8/21 (日) 今日のみことば 映像・音声

8月21日(日)マリヤの信仰②〜イエスの行った最初の奇跡





母は手伝いの人たちに言った。

「あの方が言われることを、

 何でもしてあげてください。」


     ヨハネの福音書2章5節


ガリラヤのカナというところで、結婚式がありました。

そこに、イエス・キリストも

弟子たちといっしょに招かれたのです。



そこには、イエス・キリストの母であるマリヤもいました。



当時のイスラエルでの結婚式というのは、一週間も続きます。

ですから、途中でぶどう酒がなくなってしまう

ということもあったのです。



この結婚式では、

イエス・キリストのお母さんのマリヤさんが

接待役をしていたようです。



それでぶどう酒がなくなったときに、

マリヤは息子のイエスに向かって言いました。



「ぶどう酒がありません。」



そう言えば、きっと頼りになる息子のイエスは、

何とかしてくれると期待していたのです。



ところが息子のイエスは



「あなたは私と何の関係があるのでしょう。

女の方、わたしの時はまだ来ていません。」



と答えられたのです。



何と冷たい、と思われるでしょう。



私もそう思いました。

まして、お母さんに女の方だなんて、

イエス・キリストらしくないと思われるかもしれません。

でも、これは女性に対する尊敬を込めた呼び方なのです。



つまりイエスは、



「お母さん、わかっています。

心配しないでください。

私は父なる神さまが言われたら、

その時に何とかしてあげます。

でも今は、まだその時ではありません。

父なる神は、まだ私には何も示しておられないのです。」



と言われたのです。

決して、母マリヤの言ったことを、

突き放したわけではありませんでした。



ただイエスは、



「あなたが言う前から、私には、わかっています。

そして、父なる神さまが語られる時を、持っているのです」



と言われたのです。



母マリヤには、そのことがわかっていました。



それで、結婚式のために来ていたお手伝いの人たちに

こう言いました。



「あの方が言われることを、何でもしてあげてください。」と。



マリヤは、イエス・キリストを信頼しきっていたのです。

ですから、一見冷たく思えることを言われても、

そんなことで落胆したり、あきらめたりはしませんでした。



イエス・キリストが、必ず何とかしてくださる。

ということを信じていたのです。



私たちもマリヤから学ぶ必要があります。



マリヤは、イエス・キリストを信頼しきっていました。

だから、普通だと冷たく感じてしまうことばにも、

その中にある愛と深い意味を

理解することができたのです。



いえ、もしかするとマリヤは

イエス・キリストのことばの深い意味は

分かっていなかったかもしれません。

けれども彼女は、

イエスはきっと何とかしてくれるという

イエス・キリストという方に対する深い信頼そのものを

持っていたので、すぐに、こう言えたのでしょう。

2016年8月20日土曜日

8月20日(土) カナの結婚式①〜イエスの行った最初の奇跡





イエスも、また弟子たちも、その婚礼に招かれた。


     ヨハネの福音書2章2節


イエス・キリストが宣教の働きに立たれたのは30歳でした。

それまでは、ガリラヤのナザレの町で、

両親のヨセフとマリヤに仕えておられました。

また、成人してからは、父ヨセフの仕事を引き継いで

一人の大工として、人々に仕えられていたのです。



イエス・キリストは、神の子であられました。

にもかかわらず、

神の時が来るまでは、

一人の息子として、大工として、

罪人に過ぎない人々に、

ごくごく普通の日常生活の中で、仕えられたのです。



私たちは、ともすれば、

すぐに主のために目立つ何かの働きをしたがります。



けれども、

罪と何の関係もなく、

罪を一度も犯さなかった神の子であるイエス・キリストが、

主の時が来るまで、待たれたことを覚えていましょう。



私たちが過ごす、ごくごく普通の日常生活の中に、

大切な主の働きのための備えがあるからです。

そこで、主は私たちを、

主の大いなる働きのために、整えて備えてくださるのです。



30歳になったとき、

イエス・キリストに、主の時が来ました。



イエス・キリストは、

心から愛する両親を主の手に委ね、

忠実に成してきた仕事も置いて、

主に従って、家を出られたのです。



それは、公生涯と言われる宣教の働きに立たれるためでした。



イエス・キリストが、

宣教の働きに立たれた公生涯の歩みの中で

最初にされた奇跡は「結婚式」でのことでした。



時々、イエス・キリストいう方を、

何かとても暗くて、堅い難しい人物のように

思っている方がいらっしゃいますが、とんでもありません。



イエス・キリストは

結婚式に列席し、二人を心から祝福して、

そして奇跡をなさいました。

もちろん喜びながら、

その結婚式に列席されていたことでしょう。



そして、そこで栄光を現されたのです。



その時のことを、これから書きたいと思います。

2016年8月19日金曜日

8月19日(金)不妊の胎が開かれて⑦






すると、彼は書き板を持って来させて、

「彼の名はヨハネ」と書いたので、

 人々はみな驚いた。

 すると、たちどころに彼の口が開け、舌は解け、

 ものが言えるようになって神をほめたえた。


 ルカの福音書1章63・64節


使命ゆえに待たされ整えられる


ザカリヤがヨハネと書いた瞬間、

口が開かれ神を賛美し出したのを見て、

人々は驚きました。

そして、神を恐れたのです。



このことの一部始終は、

その地方一帯に語り伝えられていきました。

そして聞いた人々はみな、

「いったいこの子は何になるのだろうか」と言い、

この子とともにある主の御手を見たのです。



ザカリヤには使命があったのです。

彼に与えられた子、ヨハネには、

救い主イエスさまの道備えをするという使命がありました。

今、始まったリバイバルの中で、

多くの人々が救われ、神の子とされていくでしょう。

彼らは、この終わりの時代、

黙示録の時代を生きることになることでしょう。



私たちは、彼らとともに、主の再臨の備えを、

主に聞きつつ、主に従って、していく必要があるのです。

それは、この時代に生きる私たちの使命なのです。



それゆえ主は、ザカリヤを待たされ整えられたように、

私たちをも待たせ整えていかれるのです。



主の訓練と懲らしめは、愛以外の何物でもありません。

それは私たちの祝福のためなのです。

2016年8月18日木曜日

8月18日(木) 不妊の胎が開かれて⑥








すると、彼は書き板を持って来させて、

「彼の名はヨハネ」と書いたので、

 人々はみな驚いた。

 すると、たちどころに彼の口が開け、舌は解け、

 ものが言えるようになって神をほめたえた。


    ルカの福音書1章63・64節


懲らしめとは整えの時


私はふと思うのです。

もしも、もしも、ザカリヤがおしになっていなかったなら、

もしかすると、

親族や近所の人々に「ヨハネ」とつけるのを反対されたとき、

「ヨハネ」とこの子につけなかったかもしれないと。



エリサベツとザカリヤが、

主の言葉に従ったときに、

その懲らしめは終わり、

彼の口から賛美があふれてきたのでした。

主の懲らしめは、私たちに平安な義の実を結ばせます。

そして私たちに心からの賛美を与えてくれるのです。



あなたも不信仰のゆえに、

主の懲らしめの中に置かれることがあるかもしれません。

しかし、

それは主があなたを愛し、子として扱っておられるからです。

主は、たとえあなたが不信仰であったとしても、

あなたに約束されたことは必ず果たしてくださるのです。

そしてその成就の時に、

あなたがそれを正しく受け取れるように、

いまその懲らしめの中で整えてくださっているのです。


続く



2016年8月17日水曜日

8月17日(水)不妊の胎が開かれて⑤






すると、彼は書き板を持って来させて、

「彼の名はヨハネ」と書いたので、

人々はみな驚いた。

すると、たちどころに彼の口が開け、舌は解け、

ものが言えるようになって神をほめたえた。

    ルカの福音書1章63・64節


この子の名はヨハネ


エリサベツのお腹は

日が増し、月が増すごとに大きくなっていきました。

そのお腹を見るたびに、ザカリヤは思いました。

主はなんと真実ですばらしい方なのだろうと。

本当に神に不可能はない、と心から実感するのでした。



そして妻のおなかを触りながら、

子どもに何かを話しかけようとすると、

彼は自分がおしであることに気づくのです。

そして思いました。

なんておれは不信仰だったんだろうか。

もう二度と神さまの言葉を疑ったりはしない。

もう不信仰はこりごりだと。



ザカリヤは、妻のエリサベツに、

主の神殿であったことを、

何度も何度も筆談で話したことでしょう。

手振りや身振りを交えながら、話したことでしょう。

そしてザカリヤの妻エリサベツは、

主が言われたとおりの男の子を産みました。



近所の人々や親族はみな集まって、

エリサベツになしてくださった

主の大きな憐れみと愛に感謝し、

彼女とともに心から喜びました。



イスラエルでは、

8日目に幼子に割礼を施し、名前をつけます。

普通は父の名にちなんだ名をつけます。

それでみんなは言いました。

ザカリヤとつけようと。



しかし母エリサベツは言いました。



「いいえ、そうではありません。

 ヨハネとつけます。

 それでなければならないのです」



みんなは反対しました。

そんな名前は、

あなたの親族の中にひとりもいないじゃないかと。

そして父親に手振りで合図して聞きました。

この子に何という名前をつけるつもりなのかと。



するとザカリヤは書き板を持って来させて、

こう書いたのです。



「この子の名はヨハネ」



そう書くや否や、

なんと、ザカリヤの口が開かれ、舌は解け、

ものが言えるようになったのです。

彼は神をほめたたえました。



かつて御使いに不信仰な告白をしたこの口が、

いま神を賛美するくちびるへと変えられていたのです。

10か月ぶりに開いた彼の口は、もう不信仰ではなく、

神の真実と憐れみに満ちた愛を賛美するくちびるへと

変えられていたのです。

10か月にわたる「おし」という懲らしめを通して、

ザカリヤも妻のエリサベツも、

主を信頼し、神のことばに従う者へと変えられていたのです。



続く


2016年8月16日火曜日

8月16日 不妊の胎が開かれて④





私の言葉は、その時が来れば実現します。

    ルカの福音書1章20節



神の約束は変わらない



不信仰なザカリヤに、御使いに言いました。



「私は神の御前に立つガブリエルです。

 あなたに、この喜びの訪れを伝えるように

 遣わされているのです。

 見なさい。

 あなたはおしになって、ものが言えなくなります。

 私のことばを信じなかったからです。

 私の言葉は、その時が来れば実現します。」



御使いは、そう言って去っていきました。



ザカリヤは神殿から出ていきましたが、

身振りや手振りをするだけでおしになっていました。



彼は自分の仕事の期間が終わると、

自分の家に帰って行きました。



そして、妻エリサベツはみごもったのです。

神さまは生きておられます。



確かにザカリヤの不信仰に対して、

おしになるという、とても厳しい懲らしめが与えられました。

しかし彼の不信仰にもかかわらず、

主が1度口に出して語られた約束は、

決して破られたり、変更はされなかったのです。

神さまは私たち人間とは違うのです。



神の愛は、深くて私たちには、とても及びもつきません。

神さまの言葉は、その時が来れば実現するのです。



妻エリサベツは言いました。

喜びに満ちて言いました。



「主は、

 人々の間で私の恥を取り除こうと心にかけてくださって、

 いま私をこのようにしてくださったのです」



うれしかったでしょう。

本当に、嬉しくて、うれしくて、たまらなかったでしょう。

ついに主は願いに答えてくださったのです。



あなたにも、こう言う日が必ずやってきます。

エリサベツのように、何年も何十年も待ち続けていることが、

答えられる日が必ずやってきます。



主は真実な方。

決して裏切らないお方だからです。


2016年8月15日月曜日

8月15日(月) 不妊の胎が開かれて③





御使いは彼に言った。

「こわがることはない。ザカリヤ。

 あなたの願いが聞かれたのです。

 あなたの妻エリサベツは男の子を産みます。

 名をヨハネとつけなさい。」


       ルカの福音書1章13節





あなたの願いは聞かれたのです



ある日くじを引いたところ、

ザカリヤが主の神殿に入って香をたくことになりました。

これは偶然ではありません。

神さまの時が来て、彼は主のもとに呼ばれたのです。



彼が香をたいている間、大勢の人々は外で祈っていました。

その時です。

突然、主の使いが、彼の前に現れたのです。

ザカリヤは不安と恐れに襲われてしまいました。

御使いは、講壇の右に立って言いました。



「こわがることはない。ザカリヤ。

 あなたの願いが聞かれたのです。

 あなたの妻エリサベツは男の子を産みます。

 名をヨハネとつけなさい。」



さらに御使いは、

この子がどのような使命があるかも語りました。



ところが、ザカリヤは信じることができなかったのです。

あんなに願い続けていたことが、

ついに神さまに答えられたというのに、

彼は、そのことばを、信じることができませんでした。



「いまさらもう無理だ。こんなに年をとってしまっている。

 妻にしても同じことだ。あんなに年老いてしまっている。

 せめてあと数年早く、

 そうおっしゃってくださればよかったのに・・・」



私はクリスチャンになって間もないころ、

この言葉を読んだとき、

なんとザカリヤは不信仰なんだと思いました。



でも、いまはそう思いません。

あまりにも長すぎたのです。

彼も妻も、ずーっと待ち続けたのです。

あまりにも長く、長く待ち続けていたのです。

信じていなかったわけではありません。



でも、

あまりに長すぎたので、もう信じれなくなっていたのです。



もしかしたら、あなたもそんなところに、今いませんか。



もしそうなら、あきらめないでください。

不信仰だったザカリヤにも、

主は約束どおりに男の子を与えてくださいました。



主は真実なお方。

憐れみと恵みに満ちておられる方です。



主はあなたにも言われます。



「あなたの願いが聞かれたのです」と。



続く



2016年8月14日日曜日

8月14日 不妊の胎が開かれて②








御使いは彼に言った。

「こわがることはない。ザカリヤ。

 あなたの願いが聞かれたのです。

 あなたの妻エリサベツは男の子を産みます。

 名をヨハネとつけなさい。」


       ルカの福音書1章13節






不妊は神のさばきではない



ザカリヤは祭司でした。

彼は妻エリサベツとともに、

まじめに、誠実に忠実に祭司の仕事をしていました。

にもかかわらず、何年も何十年もの長い間、

ずーっと願い続けている子供は与えられなかったのです。



当時の社会では、

子供が与えられないのは神に呪われている、

あるいは裁かれている、

というふうに考えられていました。

きっと彼は心を痛め苦しんでいたことでしょう。



こんなに一生懸命神さまの仕事をしているのに、

何がいけないのだろうか、

どうして神さまは、

私たちに子どもを授けてくださらないのだろうかと。



けれども、これは神の呪いでも裁きでもなかったのです。

主は救い主イエスさまの道備えをするヨハネを、

このふたりに任せる前に、

両親になるための整えと訓練をしておられたのでした。



これを読まれている方の中で、

主に忠実に従っているのに、

物事がなかなかうまくいかないで、

それどころか、逆にとても厳しい試練の中に、

長い期間おかれたりして、

自分は裁かれているのではないか・・

と思っている人がいたなら、

すぐにそれを神の裁きだと判断しないでください。



神さまは私たち人間よりはるかに高く大きなお方です。

しかも愛のお方です。

憐れみと愛に満ち溢れたお方です。



神さまには、

私たちよりはるかに高く大きな計画が

しばしばあるのです。



続く


2016年8月13日土曜日

8月13日(土) 不妊の胎が開かれて①








御使いは彼に言った。

「こわがることはない。ザカリヤ。

 あなたの願いが聞かれたのです。

 あなたの妻エリサベツは男の子を産みます。

 名をヨハネとつけなさい。」


       ルカの福音書1章13節





イエス・キリストが生まれる半年前に、

ひとりの男の子が生まれます。

名をヨハネといいます。

このヨハネは、

イエスさまの12弟子のヨハネとは別人で、

悔い改めのバプテスマを授けたことから

「バプテスマのヨハネ」と言われています。



祭司ザカリヤの妻で、

不妊であった年老いたエリサベツという女性が、

彼、バプテスマのヨハネを身ごもりました。



それはまさに奇跡でした。



そして、その誕生には神さまの深い憐れみに満ちた愛と、

ヨハネの両親である父のザカリヤと母エリサベツへの

主の整えがあったのです。



このことについて書きたいと思います。

もしあなたが長い間祈り、願い続けていることが、

まだ答えられないでいるなら、

きっと主はあなたに励ましを語ってくださることでしょう。



また自分の不信仰を嘆きながら、

もう神さまは約束を果たされないのでは、

と恐れている方がいらっしゃるなら、

きっと主はあなたに、

私たちの不信仰にもかかわらず、なしてくださる主の真実と憐れみの深さを教えてくださるでしょう。



続く


2016年8月2日火曜日

8/2(火) イエスにつまずかない者は幸いです。





目の見えない者が見、足のなえた者が歩き、

らい病人がきよめられ、

耳の聞こえない者が聞き、死人が生き返り、

貧しい者たちに福音が宣べ伝えられている。




      マタイの福音書11章6節





バプテスマのヨハネは、

獄中で、イエス・キリストのみわざについて聞き、

自分の弟子たちに託して、

イエス・キリストに、こう言い送りました。



「おいでになるはずの方は、あなたですか。

 それとも、私たちは別の方を待つべきでしょうか。」



イエスは、彼らに答えて言われました。



「あなたがたは行って、自分たちの聞いたり

 見たりしていることをヨハネに報告しなさい。」



イエスは、バプテスマのヨハネの弟子たちに、

彼らが見たり聞いたりしているイエスの御業を

ヨハネに報告しなさいと言われました。



そして続けて、具体的に、こう言われたのです。



「目の見えない者が見、足のなえた者が歩き、

らい病人がきよめられ、耳の聞こえない者が聞き、死人が生き返り、

貧しい者たちに福音が宣べ伝えられている。」と。



これらの業は、メシア、つまり救い主のしるしです。

イエス・キリストは自分こそが、

バプテストのヨハネが待ち望んでいた救い主ですと言われたのです。



そして最後に、こう言われました。



「だれでも、わたしにつまずかない者は幸いです。」



イエスをキリスト、救い主と信じて受け入れる者は幸いです。

でも、イエスをキリストと信じない者、

つまりイエスにつまずく者は、幸いではありません。

救いを失うからです。



私たちはイエスをキリスト、救い主と信じて幸いを受けましょう。