2016年7月28日木曜日

7/28(木) 家族のものが敵となる




さらに、家族の者がその人の敵となります。

マタイの福音書10章34節


イエス・キリストは家族のことについても語られました。

「わたしが来たのは  

地に平和をもたらすためだと思ってはなりません。  


わたしは、平和をもたらすためではなく、  


剣をもたらすために来たのです。  


なぜなら、わたしは人をその父に、娘をその母に、  


嫁をそのしゅうとめに逆らわせるために来たからです。」


イエスのこの言葉を聞くと、

まるでイエス・キリストが来たのは、

家族を分裂させるために来たように聞こえます。

でもこれは訳の問題で、

この「ために」というのは、理由ではなく、結果を表していて、

キリストが来た「結果として」、と言う意味です。

つまり、イエス・キリストが来たことによって、

真の平和をもたらす福音が宣べ伝えられたので、

その結果として、

福音を受け入れる者と受け入れない者の間では、

たとえ家族でも、ぶつかり合うようになり、

息子が父に、娘が母に、嫁がしゅうとめに逆らうことになります。


その結果として、

「さらに、家族の者がその人の敵となります。」

家族を愛し大切にしなければいけません。

しかし、神さまよりも大切にしてはいけないのです。


私たちが、イエス・キリストを信じ、愛して従って行くとき、

父や母よりもイエス・キリストを愛し、

キリストを本当に第一としていかないと、

イエスに従いていけなくなる時があります。 だからイエスは、

さらに、

こう言われました。


「わたしよりも父や母を愛する者は、  


わたしにふさわしい者ではありません。  


また、わたしよりも息子や娘を愛する者は、  


わたしにふさわしい者ではありません。」


イエス・キリストよりも父や母を愛すると、

イエスにふさわしい者とはならなくなるのです。

またイエス・キリストよりも息子や娘を愛すると、

イエスにふさわしい者とはなれないのです。

イエス・キリストを誰よりも、何よりも愛して、

イエス・キリストを第一にして、

イエス・キリストに従っていきましょう。

2016年7月27日水曜日

7/27(水) イエスを主と告白し認める者の祝福






ですから、わたしを人の前で認める者はみな、

わたしも天におられるわたしの父の前で、

その人を認めます。

しかし、人の前でわたしを知らないと言う者なら、

わたしも天におわれるわたしの父の前で、 そんな者は知らないと言います。


     マタイの福音書10章32・33節


イエス・キリストは、

これから迫害や殉教が起こってきます。

そしてその時に、この地上では、

信仰のゆえに、様々な困難が許されてきます。 けれども、

どのような困難が許されて、

たとえ命を失うことがあったとしても、 最後まで、この地上において

イエス・キリストを愛して、キリストへの信仰を捨てず、

イエスを主と告白し、福音を宣べ伝え続けるなら、

わたしも、つまりイエス・キリストも、 天において、父なる神さまの前で、

私たちのことを認め、神の子として迎え入れてくださる。

と言われたのです。


私は先日、ヨハネに黙示録が啓示された

ギリシャのパトモス島に行ってきましたが、

その帰りに、飛行機で アテネからトルコのイスタンブールに到着したちょうどその時に、

トルコのクーデターに巻き込まれ、


空港で丸一日過ごすことになりました。

身の危険を感じ、命を失うかもしれないと思いました。


今のこの時代は、

地震や災害などの天災や、テロや内戦などの人災など、

命の危険は世界中にあります。

その中で、迫害や殉教ということがたとえ許されたとしても、

イエス・キリストのことを拒まず、 最後まで信仰を告白し、

イエスを愛し、福音を宣べ伝える時、

イエス・キリストも、天で私たちのことを認め、

神の子として迎え入れてくださるのです。

2016年7月26日火曜日

7/26(火) 本当に恐れなければならない方





からだを殺しても、

たましいを殺せない人たちなどを恐れてはなりません。そんなものより、たましいもからだも、

ともにゲヘナで滅ぼすことのできる方を恐れなさい。




マタイの福音書10章28節





イエスは、何を恐れなければならないかを、言われました。



からだもたましいも滅ぼすことのできる方、

まことの神様を恐れなさいと。



人は、からだを殺すことは、できるかもしれません。

しかし、たましいを殺すことはできません。

どんな権力者も、あなたのからだを殺すことはできても、

たましいを殺すことはできないのです。



だから、人間を恐れることはありません。

イエス・キリストは、そう言われたのです。



そして続けて言われます。



「二羽の雀は一アサリオンで売っているでしょう。

 しかし、そんな雀の一羽でも、

 あなたがたの父のお許しなしには地に落ちることはありません。」



アサリオンというのは、

1デナリの16分の1に相当する小銅貨でした。

当時、1デナリが労働者の1日の賃金でした。



そんな二羽一組で、

1アサリオンで売っているような安い雀の一羽でさえ、

父なる神さまが許されなければ、

地に落ちて死ぬことはないと言われたのです。



つまり、

そのような価値しかない雀の一羽のことさえも

神さまは、心にかけていてくださる。



まして、

あなたがたのことを、気にかけていないわけはないでしょう。

とイエスは、言われました。



さらに、こう続けて言われました。



「また、あなたがたの髪の毛さえも、みな数えられています。」



私たちの髪の毛の一本一本まで数えて、知っておられる。

髪の毛は、毎日、新陳代謝の中で抜けていき、新しく生えてきます。

その一本一本を知っておられて、

今、何本の髪の毛があるかも知っていると、言われるのです。



自分の髪の毛が、今日、何本か知っている人など、誰もいません。

しかし、父なる神さまは、知っておられるのです。



私たちは、ともすれば、

自分のことは自分が一番知っていると思ってしまいます。



でも、そうではありません。

私たちは、自分のことも、よくわかっていないのです。

私たちのことを本当に知っておられる方、

それは父なる神さま、

そして、あなたを命をかけて愛しておられるイエス・キリストです。



「だから恐れることはありません。

 あなたがたは、たくさんの雀よりもすぐれた者です。」



イエス・キリストが言われたとおり、

私たちは人を恐れることはありません。



雀よりも、はるかにすぐれている私たち一人一人を、

神さまは、よく知っておられ、最善をなしてくださるのです。

イエス・キリストはあなたを愛して、最高を与えてくださるのです。



だから父なる神を恐れましよう。



この方こそ、本当に恐れなければならないお方です。

2016年7月25日月曜日

7/25(月) 彼らを恐れてはいけません。





だから、彼らを恐れてはいけません。

おおわれているもので、現わされないものはなく、

隠されているもので知られずに済むものはありません。




      マタイの福音書10章26節





イエスは言われました。



「弟子はその師にまさらず、しもべはその主人にまさりません。

 弟子がその師のようになれたら十分だし、

 しもべがその主人のようになれたら十分です。」



イエスは、弟子たちに対して、

師である自分のようになれたら、それで十分で、

まさることはできないし、そんな必要もないと言われました。



また、主であるイエスのようになれれば、

しもべである弟子たちは、それで十分だよと言われました。



そして、こう続けて言われました。



「彼らは家長をベルゼブルと呼ぶぐらいですから、

 ましてその家族のことは、なんと呼ぶでしょう。」



ベルゼブルというのは、悪霊の頭サタンの名前のようなものです。

彼らは、イエス・キリストのことを、

悪霊の頭であるベルゼブルと呼んでいたのです。



イエスは、ご自分のことを、ここでは家長と言われています。



神の家族である教会の頭でもあるイエス・キリストは、

まさに弟子たちの家長でした。

その家長のことをベルゼブルと呼ぶぐらいですから、

弟子たちのことを悪く言うのは当然です。



そんな悪口や批判を恐れることはない。

彼らを恐れることはないと、イエスは言われたのです。



「だから、彼らを恐れてはいけません。

 おおわれているもので、現わされないものはなく、

 隠されているもので知られずに済むものはありません。」



今はおおわれていて隠されていても、

必ず現され知られるようになる。

隠されたまま知られずに済むことは決してない、



だから、恐れずに、

わたしがあなたがたに語った福音を大胆に語り続けなさい。



暗闇でわたしがあなたがたに話すことを、

みんなのいる明るみで言いなさい。

わたしが耳元であなたにささやき語ったことを、

屋上に行って、みんなに聞こえるように言い広めなさい。



イエスは、そう言われました。



私たちも私たちのことを悪く言う人を恐れることなく、

イエス・キリストの福音を語り続けていきましょう。

2016年7月23日土曜日

7/23(土) わたしの名のために、あなたがたはすべての人々に憎まれます。





また、わたしの名のために、

あなたがたはすべての人々に憎まれます。

しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われます。




     マタイの福音書10章22節





イエスはさらに、家族のことについて語られます。



「兄弟は兄弟を死に渡し、父は子を死に渡し、

 子どもたちは両親に立ち逆らって、彼らを死なせます。」



兄弟が裏切りあい、父が子を殺し、

子どもたちが両親に立ち逆らって死なせる。

イエス・キリストを信じ、宣べ伝えたために、

家族同士で裏切り、殺し合いが起こる。

なんと恐ろしいことでしょう。



しかし迫害のときには、こういうことが起こってくるのです。

それだけではありません。

イエスは、さらに続けて言われます。



「また、わたしの名のために、

 あなたがたはすべての人々に憎まれます。」と。



イエスを信じていない家族だけではなく、

すべての人々に憎まれるとイエスは言われました。

でも、がっかりしないでください。



「しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われます。」



とイエスは続けて言われています。



つまり、その迫害の中で、忍耐をもって、

イエスを信じ続け、愛し続けていくとき、

主イエスは必ず救いの道を用意しておられるのです。



だから死に至るまで忠実でありましょう。



ただ、イエス・キリストは、迫害を受けたら殉教しなさい。

とは言われませんでした。



「彼らがこの町であなたがたを迫害するなら、次の町に逃れなさい。」



イエス・キリストは無駄に死ぬことはない。

福音のために次の町に逃れて、

福音を語り続けなさいと、言われたのです。



エルサレムの教会に対する迫害によって、

使徒たち以外のものは散らされました。



つまり信徒たちは、次の町に逃げたのです。

でもそのことによって、福音は広がり伝道の火は燃え続けました。



イエスはさらに言われました。



「というわけは、確かなことをあなたがたに告げるのですが、

 人の子が来るときまでに、

あなたがたは決してイスラエルの町々を巡り尽くせないからです。」



イエス・キリストが再び来るときまでに

弟子たちには、イスラエルの町々を巡り尽くすことはできない、



つまり、どんなに次の町に逃げて

福音を語り巡り尽くしても、尽くせないと言われたのです。



だから、勇気を持って、

迫害されたなら次の町に逃げて、

福音を語り続け、宣教を続けていきなさい。

と言われたのでしよう。

2016年7月22日金曜日

7/21(金) 話すべきことは、そのとき示されるからです。





人々があなたがたを引き渡したとき、

どのように話そうか、

何を話そうかと心配するには及びません。

話すべきことは、そのとき示されるからです。

というのは、話すのはあなたがたではなく、

あなたがたのうちにあって話される

あなたがたの父の御霊だからです。




      マタイの福音書10章19・20節



イエスは言われました。



「人々には用心しなさい。

 彼らはあなたがたを議会に引き渡し、会堂でむち打ちますから。」



議会というのは、

エルサレムにある大サンへドリンをはじめとする

各地にあるシナゴーグと呼ばれるユダヤ教会堂にある議会のことで、

当時は、そこで裁判もなされていた。



つまり、ここで言われていることは、

人々がその議会に、

つまり裁判にあなたがたをかけるために

シナゴーグである会堂に連れて行き、

そこで有罪判決を出されて鞭打たれますよ。

とイエスは言われたのです。



そして続けてこう言われました。



「また、あなたがたは、わたしのゆえに、

 総督たちや王たちの前に連れて行かれます。

 それは、彼らと異邦人たちに証しをするためです。」



イエス・キリストを信じ、宣べ伝えたために、

ローマの地方総督や王たちの前に連れて行かれ、

裁判にかけられるというのです。



しかし、それは彼らや異邦人たちに

イエス・キリストの福音を証しし、宣べ伝える機会となります。

とイエスは言われました。



その証しするときに心配する必要はない、

話すべきことは、

そのとき父の御霊が教えてくださると言われました。



「人々があなたがたを引き渡したとき、

 どのように話そうか、何を話そうかと心配するには及びません。

 話すべきことは、そのとき示されるからです。

 というのは、話すのはあなたがたではなく、

 あなたがたのうちにあって話される

 あなたがたの父の御霊だからです。」



迫害は確実にやってくる。

裁判のとき、無罪になるのではなく、有罪判決が出て、鞭打たれる。

そして、総督や王たちの前にも連れ出されることになる。



でも、心配する必要はない。

そのとき、

あなたがたのうちに住んでおられる聖霊、

父の御霊が話すべきことを教え導いて下さる。



だから恐れずにいなさい。

それはイエス・キリストを証しするすばらしい機会となる。

イエス・キリストの福音を宣べ伝える絶好の場所となる。



イエス・キリストは、そう言われたのです。



私たちも福音を宣べ伝え、イエス・キリストを証ししていくとき、

迫害を受け、誤解されたり、中傷されたりすることは

避けられないでしょう。



しかし、その中で不思議な形で、

上司や人々に証し宣教する機会が与えられていくのです。



だから恐れることなく、福音を語り続けていきましょう。

2016年7月20日水曜日

7/20(水) 蛇のようにさとく、鳩のようにすなおであれ!!





「いいですか、

 わたしが、あなたがたを遣わすのは、

 狼の中に羊を送り出すようなものです。

 ですから、

 蛇のようにさとく、鳩のようにすなおでありなさい。」




        マタイの福音書10章15節



さらに続けてイエス・キリストは遣わす弟子たちに、

これから直面する困難や迫害に対する心構えや備え、

そして実際的な対応を、前もって語り始められます。



「いいですか」と。



弟子たちの注意を引いて、続けてこう言われました。



「わたしが、あなたがたを遣わすのは、

 狼の中に羊をおくり出すようなものです。」と。



イスラエルの家に遣わされることは、

まるで羊を狙い食い殺してしまう狼のように、

あなたがたの働きを壊し破壊しようとする悪質凶暴な人たちの中に、

送り出されるようなものですよ。



「ですから、蛇のようにさとく、鳩のようにすなおでありなさい。」



と、イエスは続けて言われました。



ただ熱心なだけではいけない、

狂信的に信じるのではなく、



蛇のようにさとく、

つまり実際的な知恵を持って、

しっかりと見分けて賢明に対処し、



鳩のようにすなおに、

つまり混じり気のない純真な心で、

神のことばを聞きなさい。



と言われました。



私たちも世に遣わされていく時、

そこには多くの戦いや惑わし、混乱や誘惑があります。



弟子たちのように、

蛇のようにさとく、

しっかりと神さまに聞き、

聖書のみことばを持って見分け、

鳩のようなすなおな心で

イエス・キリストの語られることに耳を傾けて、

主イエスが用意しておられる勝利と祝福の実を

豊かに見て生きましょう。

2016年7月19日火曜日

7/19(火) 足のちりを払い落としなさい。









「もしだれも、あなたがたを受け入れず、

 あなたがたのことばに耳を傾けないなら、

 その家またはその町を出て行くときに、

 あなたがたの足のちりを払い落としなさい。」


      マタイの福音書10章14節



イエスは、

シャローム、つまり神からの平安の祝福は、

家だけではなく、町にまでおよぶと言われました。



しかし、それを受け入れないなら、

その祝福を失ってしまうのです。



イエスは言われました。



「もしだれも、あなたがたを受け入れず、

 あなたがたのことばに耳を傾けないなら、

 その家またはその町を出て行くときに、

 あなたがたの足のちりを払い落としなさい。」



弟子たちを受け入れず、

弟子たちのことば、メッセージに耳を傾けないなら、

家だけではなく、

その町を出て行くときには、

足のちりを払い落としなさいと。



足のちりを払い落とすとは、

どういうことかというと、

異邦人の地、異邦人の道を汚れたものと考えていたユダヤ人たちは、

そこを通って自分の国に入る時には、

足のちりを払い落としきよめてから入りました。

それは絶縁の証明でもありました。



つまり、

弟子たちを受け入れず、

そのことばにも耳を傾けないなら、

足のちりを払い落とし、絶縁する、

つまり「さばきをうける」と言われたのです。



だから、さらにイエスはこう続けられました。



「まことに、あなたがたに告げます。

 さばきの日には、ソドムとゴモラの地でも、

 その町よりはまだ罰が軽いのです。」



ソドムとゴモラは、

そこに住む人々の罪のゆえに、

神さまが硫黄の火を降らせて滅ぼされた町です。



この旧約聖書の創世記に出てくるソドムとゴモラは、

二つとも、滅ぼされる前に「ふたりのみ使い」を退けているのです。



御国の福音を宣べ伝えるために、

イエス・キリストから遣わされた弟子たちを拒否するなら、

それらの町よりも重い罰、さばきを受けるのです。


2016年7月18日月曜日

7/18(月) シャローム、主の平安がありますように。






その家に入るときには、平安を祈るあいさつをしなさい。



       マタイの福音書10章12節



弟子たちが宣教に行くとき、

イエスは、どんな町や村に入っても、

そこでだれが適当な人かを調べて、

その人のところに留まるように言われました。



イエス・キリストは、

2人ずつ1組にして遣わされましたが、

同じ家にとどまって、

その家を宣教の拠点として、宣教をしなさいと言われました。



その町を立ち去るまでは、

一つの家にとどまって宣教するように言われたのです。



さらに、

「その家に入るときには、平安を祈るあいさつをしなさい。」

と言われました。



この平安を祈るあいさつは「シャローム」というヘブル語です。



これは形だけの祈りではなく、

神さまからの真の平安がありますように、

という意味のある実質の伴った祈りなのです。



イスラエルでは、朝でも、昼でも、夜でも、この言葉でいいのです。



「その家がそれにふさわしい家なら、

 その平安はきっとその家に来るし、

 もし、ふさわしい家でないなら、

 その平安はあなたがたのところに返ってきます。」



とイエスは言われました。

弟子たちのとどまった家が、

その主イエスからの平安を受けるにふさわしいなら、

つまり弟子たちのメッセージを素直に受け入れ、

その宣教の働きを心から助け、共に戦うなら、

神さまからの平安、シャロームが、その家に注がれ留まるのです。



しかし、その平安の祝福に、ふさわしい家でないなら、

つまり、弟子たちのメッセージを素直に受け入れず、

宣教の働きを共ににない助けることをしないなら、

その平安、シャロームは弟子たちのところに返ってきて、

他の家に持っていくことになるのです。

2016年7月17日日曜日

7/17(日) 働く者が食べ物を与えられるのは当然です。











胴巻に金貨や銀貨や銅貨を入れてはいけません。

旅行用の袋も、二枚目の下着も、

くつも、杖も持たずに行きなさい。

働く者が食べ物を与えられるのは当然だからです。


      マタイの福音書10章9・10節





イエス・キリストは弟子たちを遣わされるとき言われました。



「胴巻に金貨や銀貨を入れてはいけません。

旅行用の袋も、二枚目の下着も、くつも、杖も持たずに行きなさい。」



金貨や銀貨を持っていくな。

二枚目の下着もいらない。

どういうことでしようか。

つまり福音のために生きるなら、神様が必ず備えてくださる。

だから、お金に頼るのでもなく、

本当に神により頼み、

神様の御心の中を宣教しに行きなさい。



そのとき、

必ず神さまが、食べ物も全ての必要を

備えて与えてくださるからと言われたのです。



だから続けて、こうイエスは言われました。



「働く者が、食べ物を与えられるのは当然だからです。」と。



私たちは、人の計算や考えではなく、

主の導きの中を、宣教しに行きましよう。

そのとき、お金ではなく、神さまにより頼んで、

神様のために働くときに、

当然のごとく、

神さまが備えてくださる食べ物、

全ての必要を見ることができるでしょう。



2016年7月16日土曜日

7/16(土) ただで与えなさい。





行って、『天の御国が近づいた。』と宣べ伝えなさい。

病人を直し、死人を生き返らせ、らい病人をきよめ、

悪霊を追い出しなさい。

あなたがたは、

ただで受けたたのだから、ただで与えなさい。




      マタイの福音書10章7・8節



弟子たちに与えられた使命は、福音宣教でした。

そのメッセージの内容は、

「天の御国が近づいた。」と宣べ伝えることでした。



これは、バプテスマのヨハネも、

イエス・キリストご自身も、

宣べ伝え、宣教されたメッセージでした。



弟子たちが宣べ伝えるのは、

自分たちのメッセージではなく、

イエス・キリストが語られたメッセージを

宣べ伝え、宣教することが使命でした。



そしてキリストがされたように、

病人を直し、

死人を生き返らせ、

らい病人をきよめ、

さらには、悪霊を追い出すように命じられたのです。



弟子たちは、宣教とともに奇蹟を行う使命を与えられました。

みことばを確かなものとする奇蹟を、

弟子たちは行うように命じられたのです。



もちろん、

そのための力を

主イエス・キリストが与えてくださって、遣わされたのです。



弟子たちのうちには、そのような力はありません。



しかし、主イエスが遣わされたので、

イエス・キリストが行われたように、

病人を直し、

死人を生き返らせ、

らい病人を清めることができるのです。



また主イエスから遣わされた時に、

主イエス・キリストの権威を授けられたので、

悪霊を追い出すこともできるのです。



そして、

この力と権威は、

主イエス・キリストからタダで与えられたものです。



だから、タダで与えなさいと主イエスは言われました。



多くの新興宗教が、

悪霊による奇蹟や癒しを通して、

お金を貪りとります。



しかしイエス・キリストは、



「ただで与えなさい。」と言われました。



私たちは、福音宣教を通して、永遠の命を受け、

いやしや奇蹟、悪霊追い出しを通して、

神さまの力と権威、そして愛の深さ大きさを知るのです。



それは神さまから、無代価で与えられました。

イエス・キリストの十字架によって、与えられました。

キリストの命という代価を払って、与えられました。



永遠の命も、

いやしも、

死人の生き返りも、

奇蹟も悪霊追い出しも、

すべての解決と勝利は、



イエス・キリストの十字架によって与えられました。



イエス・キリストの命が代価として払われたのです。

だから、ただで受けることができます。



私たちも、ただで受けたのですから、ただで与えるのです。

2016年7月15日金曜日

7/15(金) 12使徒の派遣






イスラエルの滅びた羊のところに行きなさい。




        マタイの福音書10章6節



イエスは、この選んだ12人を遣わされます。

そのとき、彼らに、こう命じられました。



「異邦人の道に行ってはいけません。

 サマリヤ人の町にはいってはいけません。

 イスラエルの滅びた羊のところに行きなさい。」と。



イエス・キリストご自身がまず、

選びの民であるイスラエル、ユダヤ人たちに遣わされたように、

弟子たちにも、

まず選びの民であるイスラエル、

ユダヤ人のところに遣わされました。



イエス・キリストは、異邦人を嫌われ、

サマリヤ人を避けられたのではありません。



イエス・キリストご自身がサマリヤに行き、

一人のサマリヤ人の女を救われ、

そこからサマリヤの町にリバイバルを導かれています。



異邦人の女であるカナン人の女がみもとに来た時も、

その信仰をほめ、その娘をいやされました。



しかし、この時は、まだ弟子たちには、

まず同胞の民イスラエル、ユダヤ人のところに行くように言われ、異教徒である異邦人や

異教徒と妥協し混ざり合ってしまったサマリヤ人のところには、

行かないようにと言われたのです。



すべてのことには時があります。



慌てずに主の時を待ちましょう。



今、主が言われていることに、

丁寧に聞き従いながら、一歩ずつ従っていきましょう。



主の時が来た時に、

主ご自身が、新しい働きの段階に私たちを導かれます。


2016年7月14日木曜日

7/15(金) 12使徒の派遣






イスラエルの滅びた羊のところに行きなさい。




        マタイの福音書10章6節



イエスは、この選んだ12人を遣わされます。

そのとき、彼らに、こう命じられました。



「異邦人の道に行ってはいけません。

 サマリヤ人の町にはいってはいけません。

 イスラエルの滅びた羊のところに行きなさい。」と。



イエス・キリストご自身がまず、

選びの民であるイスラエル、ユダヤ人たちに遣わされたように、

弟子たちにも、

まず選びの民であるイスラエル、

ユダヤ人のところに遣わされました。



イエス・キリストは、異邦人を嫌われ、

サマリヤ人を避けられたのではありません。



イエス・キリストご自身がサマリヤに行き、

一人のサマリヤ人の女を救われ、

そこからサマリヤの町にリバイバルを導かれています。



異邦人の女であるカナン人の女がみもとに来た時も、

その信仰をほめ、その娘をいやされました。



しかし、この時は、まだ弟子たちには、

まず同胞の民イスラエル、ユダヤ人のところに行くように言われ、異教徒である異邦人や

異教徒と妥協し混ざり合ってしまったサマリヤ人のところには、

行かないようにと言われたのです。



すべてのことには時があります。



慌てずに主の時を待ちましょう。



今、主が言われていることに、

丁寧に聞き従いながら、一歩ずつ従っていきましょう。



主の時が来た時に、

主ご自身が、新しい働きの段階に私たちを導かれます。


7/14(木) 12弟子の任命





イエスは十二弟子を呼び寄せて、

汚れた霊どもを制する権威をお授けになった。

霊どもを追い出し、

あらゆる病気、あらゆるわずらいを直すためであった。




       マタイの福音書10章1節





イエスは、ご自分が選ばれた12人の弟子を呼び寄せて、

汚れた霊どもを制する権威を、お授けになりました。



12弟子が、霊どもを追い出し、

あらゆる病気、あらゆるわずらいを直すためでした。



彼らは使徒と呼ばれました。

使徒とは、

「特定の使命のために職権をゆだねられて、遣わされた者」

という意味があります。



使徒に選ばれた12人の名前は、

まずペテロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレ、

ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネ、

ピリポとバルトロマイ、トマスと取税人マタイ、

アルパヨの子ヤコブとタダイ、

熱心党員シモンとイエスを裏切ったイスカリオテのユダ、

この12人でした。

売国奴と言われ同胞から税金を取っていた取税人マタイから、

ローマにも屈しない熱狂的愛国主義者の熱心党のシモンまで、

今で言えば、右から左まで、正反対の立場にいた者たちをはじめ、

実に幅広くイエス・キリストは、使徒たちを選ばれたのです。



イエス・キリストは、過去に縛られず、偏った見方をなされず、

一人一人の心をご覧になって、選んでくださるのです。

2016年7月13日水曜日

7/13(水) 収穫のための働き人






そのとき、弟子たちに言われた。

「収穫は多いが、働き手が少ない。

 だから、収穫の主に、収穫のために

働き手を送ってくださるように祈りなさい。」




マタイの福音書9章37・38節




イエスは、盲人の目をあけ見えるようにしてくださり、

悪霊につかれて口がきけない人を、

悪霊を追い出し口がきけるようにされ、



それから、イエスは、ガリラヤのすべての町や村を巡って、

会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、

あらゆる病気、あらゆるわずらいを直されました。



イエスはみ言葉を教え、

御国の福音を宣教し、

病気とわずらいに苦しむ人を直し解放されました。



イエス・キリストは、

いつも、

この3つのことをしておられました。



また、群衆を見て、

羊飼いのいない羊のように弱り果てて倒れている彼らを

かわいそうに思われました。



イエスは、群衆の姿を見たとき、

本当に羊を愛し守る羊飼いのような指導者がいないために、

疲れ果て、倒れている群衆を見て、

とても深く強く心が動かされ、かわいそうに思われたのです。



そのとき、弟子たちに言われました。



「収穫は多いが働き手が少ない。

 だから、収穫の主に、

 収穫のための働き人を送ってくださるように祈りなさい。」



たくさんの人が飢え渇いて救われようとしている。

それなのに、そのために、

本当に彼らのために心を砕いて、魂を求める働き人が少ない。



だから、収穫を与えてくださる主に

働き人を送ってくださるように祈りなさい。

とイエスは言われました。



今の時代も、この状況は同じかもしれません。

私たちは、イエス・キリストが語られたこのことばに応答して、

働き人を祈り求めましょう。

2016年7月12日火曜日

7/12(火) 悪霊を追い出されるイエス





悪霊が追い出されると、その人はものを言った。

群衆は驚いて、

「こんなことは、イスラエルで

  いまだかつて見たことがない」と言った。




         マタイの福音書9章33節





2人の盲人の目が開かれて見えるようになり、

彼らが喜んで出て行くと、



今度は、悪霊につかれて口のきけない人が、

イエスのみもとに、連れて来られました。



イエスが、この人から悪霊を追い出すと、

彼はものを言い、口がきけるように、話せるようになったのです。



これを見ていた群衆は驚き、

「こんなことは、イスラエルでいまだかつて見たことはない。」と

言いました。



彼らは、イエスこそが救い主、メシアであると思ったことでしょう。

この言葉には、その思いが表れています。



しかし、パリサイ人たちは、

「彼は悪霊どものかしらを使って、悪霊どもを追い出しているのだ。」

と言いました。



彼らは、盲人の目が開いて見えるようになり、

口のきけない悪霊につかれた人が、

悪霊から解放されて、口がきけるようになったのを見ても、

イエス・キリストを

メシア、救い主として、認めることはできませんでした。 



固定観念に捕らえられていると、

イエスが救い主であることが見えなくなるのですね。

心が高いと、

どんなに素晴らしいイエスのメシアとしての業を見ても、

決して信じることはできないのでしょう。



私たちは、心を低くして、固定観念にとらわれることなく、

イエス・キリストに、

イエスのことばに、

キリストのなされる業に、

信仰の目を留め、心を開いていきましょう。



きっとその時、聞こえてくる神の声があり、

その時、開かれてくる聖書の真理・奥義があるのでしょう。

2016年7月11日月曜日

7/11(月) 見えるようになった2人の盲人






そこで、イエスは彼らの目にさわって、

「あなたがたの信仰のとおりになれ。」と言われた。

すると、彼の目があいた。

イエスは彼らをきびしく戒めて、

「決してだれにも知られないように気をつけなさい。」

と言われた。




        マタイの福音書9章29・30節



イエスは会堂管理者の娘を生き返らせると、

その家を後にして、さらに道を通って進んで行かれました。



すると2人の盲人が、大声で叫びながらついて来ます。

彼らは「ダビデの子よ。わたしたちをあわれんでください。」

と大声で叫びながら、イエスについて来るのです。



この2人の盲人は、目が見えるようになりたかったのです。

そしてイエス・キリストなら、

きっと私たちのこの盲目の目を見えるようにしてくださる、

彼らは、そう信じていたのです。



ですから大声で叫びながら、イエスのあとについてきました。



イエスが家にはいられると、

その2人の盲人たちも家の中に入ってきて、

イエスのみもとにやって来ました。



イエスは、この2人の盲人に言われました。



「わたしにそんなことができると信じるのか。」



2人の盲人は、「そうです。主よ。」と答えました。



その答えを聞くと、イエスは彼らの目にさわって、



「あなたがたの信仰のとおりになれ。」と言われました。



すると、彼らの目はあいたのです。



イエスは、この2人の盲人に

「わたしにそんなことができると信じるのか」と聞かれました。



イエス・キリストは確認されました。

彼らが、

イエスには盲人の目を開くことができる

ということを信じているかを。



イエス・キリストは、

はっきりと彼らの口から聞きたかったのでしょう。

その信仰の告白を。



「そうです。主よ。」と、2人の信仰の告白を聞かれた時、

イエスは、すぐに手を伸ばして、彼らの目にさわって言われます。

「あなたがたの信仰のとおりになれ。」と。



そして2人の盲人の目は開くのです。

見えるようになるのです。



イエスは、彼らの信仰を見て、

その手を思わずも伸ばされ目にさわられました。



私たちも、イエスのところに行き、信仰の声をあげましょう。

主はその声を聞き、

主の手を伸ばして、あなたの上に置いてくださり、

そして言われます。



「あなたの信仰のとおりになれ。」と。



そして信仰のとおりに奇跡を、いやしを、解放を、

そして圧倒的な勝利を、

イエス・キリストに見せていただきましょう。



見えるようになった、この2人の盲人にイエスは言われました。

「決してだれにも知られないように気をつけなさい。」と、

きびしく戒めて言われました。



ところが、彼らは出て行って、

イエスのことをその地方全体に言いふらしました。

きっと、あまりにも嬉しかったのでしょう。


2016年7月10日日曜日

7/10(日) 死んでいた少女を起き上がらせ、生き返らせたイエス・キリスト





イエスは群衆を外に出してから、

うちにお入りになり、少女の手を取られた。

すると少女は起き上がった。



       マタイの福音書9章25 節





12年の間長血を患っていた女を癒された後、

イエスは娘が死んでしまった会堂管理者の家に来られました。

会堂管理者の家では、笛吹くものや群衆が騒いでいました。



当時のユダヤの葬儀では、

どんなに貧しい者でも最低2人の笛吹きと1人の泣き女を

用意することになっていました。

まして会堂管理者の彼の娘が死んだのですから、

たくさんの笛吹きと泣き女がいて騒然としていたことでしょう。



それを見て、イエスは言われました。



「あちらに行きなさい。

 その子は死んだのではない。眠っているのです。」



彼らは、これを聞き、イエスをあざ笑いました。



しかしイエスはあざ笑った群衆を外に出し、

ご自分は供に連れてきた弟子と、

この娘の両親とだけを連れて、

うちにお入りになられました。



本当に心からこの娘を愛し、

この娘の生き返りを願い信じている者だけを連れて入られました。

この娘の父と母、そしてイエスが連れてきた弟子たちでした。



イエスは少女の手を取られました。



すると少女は起き上がったのです。

死んでいた少女が起き上がったのです。



この娘の両親は、どんなに嬉しかったでしょうか。

特に父親は、

イエスのところまで行って、本当に良かったと思ったことでしょう。



あなたも、「もう無理だ。」「もうだめだ。」と思ったとしても、

あきらめないでください。

あなたが、イエス・キリストのところに来るならば、

この会堂管理者が、死んだ娘を生き返らせていただいたように、

あなたも必ず、信じられないような奇跡を見せていただき、

不可能を可能にしていただけるのです。



イエス・キリストは、あなたを愛しておられます。

あなたの祈りに耳を傾け、あなたの叫びに答えてくださるのです。



死んだこの娘、12歳の少女の生き返りのうわさは、

この地方全体に広まっていきました。


2016年7月9日土曜日

7/9(土)12年長血が完全に直った







イエスは、振り向いて彼女を見て言われた。

「娘よ。しっかりしなさい。

 あなたの信仰があなたを直したのです。」

すると、女はその時から全く直った。




     マタイの福音書9章22節




イエスが立ち止まり振り向かれたのは、

ひとりの女に声をかけるためでした。



この女は12年の間、長血をわずらっている女でした。

長血というのは、今でいう婦人病のような病気でした。



彼女は、どうしても直りたくて、

あのお医者さんがいいと聞くと出かけて行き、

いろんなお医者さんにかかりましたが、よくなりませんでした。



いえ、それどころか悪くなる一方でした。

当時保険などありませんから、お金も底をつき、

精神的にも追い詰められ、彼女は本当に苦しんでいました。



その時、イエス・キリストのことを聞いたのです。



病気を治し、死人を生き返らせ、奇蹟と癒しを行っている人がいる。

しかもその人は愛の方で、そのことばには権威と力があると。



彼女は、それを聞くと、いてもたってもいられなくなりました。

でも、もうお金はありません。

それでも、どうしても、その人に会いたい。

その方に会って直していただきたい、

その方なら、きっと私を直してくださるに違いない。



今までたくさんののお金を使い、

どんなお医者さんにかかってもダメだったのに、

彼女はあきらめませんでした。



イエス・キリストのことを聞いた時、

この方なら、必ず私を直して下さる、

誰も何も直せなかった私を、

この方、イエス・キリストは必ず直してくださると信じたのです。



そう信じた彼女は、イエスのところに来たのです。

そして、イエスの周りにいるたくさんの群衆を見て、

彼女は思いました。

とてもイエス・キリストに直接お願いすることはできない。

でも、うしろから、そっとあの方の着物のふさにさわろう、

きっとそれだけで、あの方イエス・キリストなら直してくださる。

彼女はそう信じたのです。



それで、この12年の間、長血をわずらっていた女は、

イエスのうしろに来て、その着物のふさにさわりました。



「お着物にさわることでもできれば、きっと直る」

と心の内で考え、信じていたからです。



と、その瞬間、

イエスは立ち止まり、振り向いて彼女を見て言われました。



「娘よ。しっかりしなさい。あなたの信仰があなたを直したのです。」



すると、イエスがそう言われたその時から、

この女は全く治ったのです。



彼女が信じた通りに、

イエスのうしろから、イエスのお着物のふさにさわっただけで、

完全に直ったのです。

12年間苦しんで、誰にも直せなかった長血が完全に直ったのです。



この女は驚いたことでしょう。

信じていた通りになったのを見て、本当に嬉しかったでしょう。



イエス・キリストは、この女の信仰に答えてくださいました。

彼女の12年間の苦しみと痛みを知り、

彼女の心からの叫びに答えられたのです。



うしろから、そっとさわるだけでもいいのです。

あなたが信じているなら、

イエス・キリストは、その信仰を見て、答えてくださるのです。



これがイエス・キリストです。

この方が、私たちの信じている主イエス・キリストです。


2016年7月8日金曜日

7/8(金) 死んだ私の娘を生き返らせてください





イエスがこれらのことを話しておられると、

見よ。ひとりの会堂管理者が来て、ひれ伏して言った。

「私の娘がいま死にました。

 でも、おいでくださって、

 娘の上に御手を置いてやってください。

 そうすれば、娘は生き返ります。」



      マタイの福音書9章18節




イエスが、

「新しいぶどう酒は新しい皮袋に入れれば、両方とも保ちます。」

と、このようなことを話しておられると、

そこへ、ひとりの会堂管理者がやってきました。



この会堂管理者は、イエスの前に、ひれ伏して言いました。



「私の娘がいま死にました。

 でも、おいでくださって、娘の上に御手を置いてやってください。

 そうすれば、娘は生き返ります。」



自分の娘が死んだら、どんなに悲しく辛いことでしょう。

気持ちが落ち込んで、半狂乱してしまうかもしれませんね。



ところが、この会堂管理者は、

娘が死んでも決してあきらめませんでした。

イエス・キリストのところに行けば、きっと生き返らしてくださる。

必ずキリストは、ここにきて、

この娘に手を置いて生き返らせてくださると信じたのです。



そして実際、キリストがおられるところまで、やってきました。

彼は、イエス・キリストの前にひれ伏して、懇願したのです。

全身全霊を込めて、懇願したのです。



この方は死にさえ打ち勝って、

私の愛する娘を生き返らせてくださると信じて、懇願したのです。



そう、きっと生き返らせてくださると信じて・・・

必ず、この娘のところに来てくださる。

そして、この娘に手を置いて、生き返らせてくださると信じて・・・



彼はイエスを信じ、キリストに期待して、ひれ伏したのです。



イエス・キリストは、立ち上がり、彼について行かれました。

すると弟子たちもついて来ました。



イエス・キリストは、

キリストを信じて、みもとに来る者を拒まれることはないのです。

この会堂管理者の心からの願いと叫びに、

すぐに応答してくださったのです。



イエス・キリストは、

あなたの心からの叫びにも答えて下さいます。

イエス・キリストは、

あなたの心からの願いに応えてくださる方です。



あなたがイエス・キリストを信じて、

彼のところに来るなら、

その願いと求めが、どんな不可能と思えるようなことであっても、

イエス・キリストは答えてくださいます。



イエス・キリストは、

死んだ者さえも生き返らせてくださる方だからです。



イエスが、彼らとともに会堂管理者の家に向かっていると、

突然キリストは立ち止まられました・・・

そして振り向かれたのです。



何が起こったのでしょう。



そのことは明日また書くことにしましょう・・

2016年7月7日木曜日

7/7(木) 新しい皮袋






また、人は新しいぶどう酒を

古い皮袋に入れるようなことはしません。

そんなことをすれば、

皮袋は避けて、ぶどう酒が流れ出てしまい、

皮袋もだめになってしまいます。

新しいぶどう酒を新しい皮袋に入れれば、

両方とも保ちます。



      マタイの福音書9章17節




イエスは、花婿がいる間は断食できないけれど、

花婿が取り去られる時がくる。

その時には断食しますと言われ、

さらに続けて、こう言われました。



「だれも、

 真新しい布切れで古い着物の継ぎをするようなことはしません。

 そんな継ぎ切れは着物を引き破って、

 破れがもっとひどくなるからです。

 また、人は新しいぶどう酒を

 古い皮袋に入れるようなことはしません。

 そんなことをすれば、皮袋は避けて、

 ぶどう酒が流れ出てしまい、

 皮袋もだめになってしまいます。

 新しいぶどう酒を新しい皮袋に入れれば、両方とも保ちます。」



真新しい布切れで古い着物の継ぎをすると、

その継ぎ切れは古い着物を引き破って、

かえってひどくなってしまいます。



また、新しいぶどう酒を古い皮袋に入れれば、

皮袋が避けて、ぶどう酒が流れ出てしまい、

皮袋もぶどう酒もだめになってしまいます。



新しいぶどう酒は、新しい皮袋に入れるのです。



これは何を言っているのでしよう。



イエス・キリストは、新しいぶどう酒、真新しい布切れなのです。



イエス・キリストの福音という新しい布切れで、

ユダヤ教の因習や伝統という古い着物の継ぎをすると、

破ってしまい、かえってひどくなるのです。



イエス・キリストの福音という新しいぶどう酒を、

古い律法という皮袋に入れると、引き破ってしまうのです。



イエス・キリストの福音は、

信仰という新しい皮袋に入れなければならないのです。



イエス・キリストの福音は、信仰という新しい皮袋に入れるとき、神の恵みがあふれ出し、

イエス・キリストの福音の中で、

律法さえも信仰を通して生きるのです。


2016年7月6日水曜日

7/6(水) 断食





花婿につき添う友だちは、

花婿がいっしょにいる間は、

どうして悲しんだりできましょう。

しかし、花婿が取り去られる時が来ます。

そのときには断食します。



    マタイの福音書9章15節




イエス・キリストが罪人や取税人たちと食卓を囲んでいると、

バプテスマのヨハネの弟子たちが、

イエスのところに来てこう言いました。



「私たちとパリサイ人たちは断食するのに、

 なぜ、あなたの弟子たちは断食しないのですか。」



イエスは彼らに答えて言われました。



「花婿につき添う友だちは、

 花婿がいっしょにいる間は、

 どうして悲しんだりできましょう。

 しかし、花婿が取り去られる時が来ます。

 そのときには断食します。」



バプテスマのヨハネの弟子たちは、

旧約聖書に書いてある通り、定期的に断食していました。

また、悲しみがある時にも断食していました。

それは、大切なことでした。



ですから、

イエスの弟子たちが断食しないのを、不思議に思ったのでしよう。



しかしイエスは、それに対して、

花婿につき添ってる友だちは、

花婿がいっしょにいる間は、悲しんだりしないし、断食もしない。



同じように、

花婿である私・イエス・キリストがいっしょにいる間は、

弟子たちは、悲しんだりしないし、断食もしないのです。

と言われました。



でも、花婿である私イエス・キリストが取り去られる時、

つまり、十字架にかかる時が来たら、そのときには断食します。

と言われたのです。

愛するものを失う時、悲しみの時が来たら断食をします。

今は、その時ではないのです。

そう言われたのですね。



そして、さらに続けて言われました。

それはまた明日書くことにしましょう。

2016年7月5日火曜日

7/5(火) わたしはあわれみは好むが、いけにえは好まない。




「『わたしはあわれみは好むが、

いけにえは好まない。』

 とはどういう意味か、行って学んで来なさい。

 わたしは正しい人を招くためではなく、

罪人を招くために、来たのです。」



       マタイの福音書9章13節





取税人のマタイを、

イエス・キリストが弟子に招かれた後、

イエスは、マタイの家で食事の席についておられました。



マタイはイエス・キリストが自分の家に来てくださったことと、

イエスの弟子になれたことが嬉しかったのでしょう。

その食卓に、たくさんの取税人や罪人を招きました。



それで、取税人や罪人が大ぜいやって来て、

イエスや弟子たちといっしょに同じ食卓についていました。



すると、

これを見たパリサイ人たちは、

イエスの弟子たちに言いました。



「なぜ、あなたがたの先生は

 取税人や罪人といっしょに食事をするのですか。」



パリサイ人たちは、

取税人や罪人のような汚れた者たちとは付き合わず、

もちろん食事もいっしょにしなかったからです。



取税人は、売国奴、裏切り者と言われていました。

また罪人というのは、律法を守れない人たちのことで、

律法を厳格に守っているパリサイ人たちは、

取税人や罪人のことを軽蔑し、

彼らとは付き合ったり交わったりすることは、なかったのです。



イエスは、これを聞いて言われます。



「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。

 『わたしはあわれみは好むが、いけにえは好まない。』

 とはどういう意味か、行って学んで来なさい。

 わたしは正しい人を招くためではなく、

 罪人を招くために、来たのです。」



元気な時に病院に行き、お医者さんに診てもらう人はいません。

もちろん、検査のために、

時間とお金と心に余裕のある方は病院に行かれるかもしれませんが、

普通は行きませんね。



でもどんなに病院嫌いな人でも、

病気になれば、病院に行き、お医者さんに見てもらいます。



同じように、

自分のことを正しいと思っている人は、

赦しもあわれみも必要とはしないのです。

だからイエス・キリストのところに来ません。

キリストの十字架を必要と思わず、感謝も出てこないのです。



自分には神様のあわれみと赦しがないと生きていけない、

そう思っているので、イエス・キリストのところに来るのです。

そして

キリストの十字架によって救われ、神への感謝が溢れてくるのです。



神さまは、どんなに律法を厳格に守っても、

その心が神さまから遠く離れている人は好まないのです。

そのようないけにえには、愛がないのです。



しかし、どんなに弱く不十分で罪にまみれている罪人であっても、神さまの前に低い砕かれた心で、悔い改め、

憐れみにすがる人は、

受け入れられ好まれるのです。



2016年7月4日月曜日

7/4(月) わたしについて来なさい。Follow Me!!!




イエスは、そこを去って道を通りながら、

収税所にすわっているマタイという人をご覧になって、

「わたしについて来なさい。」と言われた。

すると彼は立ち上がって、イエスに従った。




        マタイの福音書9章9節




中風の人を癒され家に帰された後、

イエスはそこを去り、歩いておられました。



イエスが通っておられた道の所には、収税所があり、

マタイという人が座って仕事をしていました。

イエスはその彼をご覧になり、



「わたしについて来なさい。」と言われました。



すると彼はいきなり立ち上がり、イエスに従い、ついて行くのです。





当時、収税人というのは忌み嫌われていました。

どうしてかというと、

ローマに支配されていたイスラエルは、

ローマに税金を払わなければなりませんでした。



神に選ばれた民であるユダヤ人たちには、そのことが屈辱でした。



しかもローマ人たちは、その税の取り立てを

自分たちでしないで、ユダヤ人にさせたのです。

収税人は、

同胞のユダヤ人から税を取り、

ローマに収めるのが仕事でした。



しかもなんとその税を取り立てる時に、

とても多くとりたて、

余分に取ったお金を自分の懐に入れ、

残りをローマに収めていたのです。



こうして収税人は、お金を蓄えていき大金持ちになりました。

収税人はお金持ちでした。



でも同胞のユダヤ人からは、軽蔑され見下げられていました。



そこにイエス・キリストは来られたのです。

偶然通りがかったというより、

イエスは、彼に会うために、

その道を通られたという方がいいかもしれません。



彼はお金をどんなに持っていても寂しかったと思います。

孤独の中で、

自分でも自分のことを、

同胞を裏切り続けている恥ずかしい情けない人間だと

思っていたことでしょう。



そんな所に、

みんなに慕われ、奇蹟といやしをなし、

救い主と思われるイエスが、やってこられたのです。



彼はびっくりし驚いたことでしよう。

しかも彼に、こう言われるのです。

「わたしについて来なさい。」と。



収税人マタイは、すぐに立ち上がり、イエスに従いました。



自分を見下げず、自分を馬鹿にせず、

収税人である自分の所に来て、



「わたしについて来なさい。」



と言ってくださった方。

その方にマタイは、すぐに立ち上がり、従いついていくのです。



マタイは嬉しかったことでしょう。



自分を一人の人間として認め、

弟子に招いてくださったイエス・キリスト。



彼は何もかも捨てて、このイエス・キリストに従って行きます。



新しい人生がキリスト共に始まったのです。


2016年7月2日土曜日

7/2(土) 中風の人をも立たせるイエスの権威










「人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを、

 あなたがたに知らせるために。」

こう言って、それから中風の人に、

「起きなさい。寝床をたたんで、家に帰りなさい。」

と言われた。

すると、彼は起きて家に帰った。




        マタイの福音書9章6・7節





イエスは舟に乗って湖を渡り、

自分の町、カペナウムに帰ってこられました。



すると、人々が中風の人を床に寝かせたままで、

イエスのみもとに運んできました。



イエスのところに連れて来れば、

きっと直してもらえると、

彼らは信じて期待して、

連れてきたのです。



イエスは彼らの信仰を見て、

中風の人に、



「子よ。しっかりしなさい。あなたの罪は赦された。」



と言われました。



すると、これを聞いていた律法学者たちは、心の中で、

「この人は神をけがしている。」と言いました。



どうして、そんな風に思ったのかというと、

あなたの罪は赦されましたと言われたからです。

罪を赦すことができるのは、神さまだけです。

それなのに、イエスが「罪が赦されました。」と言われたからです。

もし、イエスが神でなかったら、

確かに、これはとんでもない神への冒涜ですね。

まさに神をけがしているのです。

でも、イエスがキリストで神さまなら、

これは冒涜でもなんでもなく、神の言葉なのです。

もちろんイエスは彼らの心の思いをすぐに見抜かれました。

イエスは言われます。



「なぜ、心の中で悪いことを考えているのか。

『あなたの罪は赦されました。』と言うのと、

『起きて、歩け。』と言うのと、どちらがやさしいか。」



口先だけで「あなたの罪は赦された」というのは、簡単です。

でも「起きて、歩け」と言って、起きて歩けるようになるには、

本当に言葉に権威がなければできません。

もしそれができるなら、「罪を赦す」こともできるのです。

イエスは続けて言われます。



「人の子が罪を赦す権威を持っていることを、

 あなたがたに知らせるために。」



こう言って、それから中風の人に、



「起きなさい。寝床をたたんで、家に帰りなさい。」と言われました。



すると、その中風の人は、起きて家に帰っていったのです。



この光景を見た群衆は、恐ろしくなりました。

中風の人がイエスの一言で、

いやされ立ち上がって、

家まで歩いて帰って行ったのです。



そして、このような権威を人に、

もう少し正確に言うと、人となってくださったイエス・キリストに、

お与えになった神さまをあがめました。



イエスは神であられました。

イエスは神のひとり子です。



人間の子が人間であり、

また犬の子は犬であり、猫の子は猫であるように、

神の子であるイエス・キリストは神なのです。



イエス・キリストには、罪を赦す権威も与えられていました。

そして、中風の人をいやし立たせて歩かせることもできたのです。



私たちはイエス・キリストの権威を小さく見てはいないでしょうか。

イエス・キリストは一言で、嵐を静め、

イエス・キリストは、一言で、中風の人をいやし、

あの十字架で私たちの罪を完全に贖い赦してくださったのです。



この方、イエス・キリストに

お出来にならないことは、この地上にはありません。

2016年7月1日金曜日

7/1(金) 悪霊どもを豚の群れの中に





それで、悪霊どもはイエスに願ってこう言った。

「もし私たちを追い出そうとされるのでしたら、

 どうか、豚の中にやってください。」

イエスは彼らに「行け。」と言われた。

すると彼らは出て行って豚にはいった。

すると、見よ、その群れ全体が

どっとがけから湖へ駆け降りて行って、水におぼれて死んだ。


          マタイの福音書8章31-33節



イエスの乗っていた舟が、向こう岸のガダラ人の地に着くと、

悪霊に憑かれた人が2人墓場から出てきて、イエスに出会いました。

この2人は、ひどく凶暴で、

彼らがいると誰もその道を通れないほどでした。

彼らはイエスを見ると、わめきだして、言いました。

「神の子よ。いったい私たちに何をしようというのです。

 まだその時ではないのに、

 もう私たちを苦しめに来られたのですか。」



まだその時でないのに、というのは、どのいうことなのでしょうか。



ここでいう「その時」とは、最後の審判、

つまり世の終わりにある定められた審判の時のことだと思われます。



「まだ世の終わりである最後の審判の時でないのに、

 もう私たちを苦しめに来たのですか。」

と悪霊に憑かれた2人は、わめいたのですね。



悪霊どもは知っていたのです。

イエスが来られれば、自分たちは追い出されるということを。

悪霊は、イエス・キリストの前では、何の力もなく、

イエスの言われる通りに従わねばならないことを。

だから、イエスに向かってわめいたのでしょう。



そこからずっと離れた所に、豚の群れが飼ってありました。

それを見た悪霊どもはイエスに願って、こう言いました。



「もし私たちを追い出そうとされるのでしたら、

 どうか、豚の中にやってください。」と。



イエスは彼らに「行け。」と言われました。

すると悪霊どもは出て行って、豚の中に入りました。

すると、豚の群れ全体が、どっとがけから湖へ駆け降りて行って、

水の中に飛び込み、溺れて全部、死んでしまいました。



なぜ、イエスは、悪霊が豚の中に行くことを許されたのでしょう。

豚の中に入れば、豚を死なせてしまうことぐらい、

イエス・キリストなら、わかっていたはずです。



実は、旧約聖書のユダヤの世界では、豚は汚れた動物なのです。

ですから、今でもユダヤ人たちは、豚肉は食べません。



おそらく、ガダラ人たちは、

ユダヤ人ではなく、異邦人だったと思います。

だから豚を飼っていたのでしょう。

もしもユダヤ人なら、これはとんでも無いことです。

いずれにしても、ガダラ人たちは、この辺りで豚を飼育し、

お金儲けをしていたのです。

ユダヤ人たちも関わっていた可能性はあります。



イエス・キリストは、豚の中に悪霊が行くことを許され、

豚が死んでしまうことも許されました。

マルコの福音書によると、二千匹の豚だったということです。

二千匹の豚が死んでしまっても、

この二人を悪霊から解放し、助けることの方が大切だったのです。



イエス・キリストにとっては、

この2人の人が解放され、自分の人生を取り戻すことが、

汚れた豚が二千匹死ぬことよりも、はるかに重要でした。



しかし、人々にとっては、そうではなかったようです。



二千匹の豚が水に溺れて死んでしまうのを見ると、

この豚を飼っていた者たちは逃げ出して町に行き、

悪霊につかれた人たちのことや豚に起こったことなどを

残らず町の人々に話して聞かせ知らせました。



すると、町中の者たちがイエスに会いに出てきました。

そして、イエスに会うと、

「どうかこの地方を立ち去ってください。」と願ったのです。



2人の人が悪霊から解放されて正気に戻ったことよりも、

豚が死んでしまったこと、

仕事が台無しになってしまったこと、

そのこの方が、この町の人たちには痛かったのでしよう。



もう少しきつい言い方をすると、

お金儲けができなくなってしまったことが、

この町の人々には、たまらなかったのでしょう。

お金儲けの方が、この2人の解放より大事なことだったのでしょう。



私たちもともすれば、

人の解放やいやしよりも、

この世の成功や名声が大切になり、

一番大切な永遠の命、人々の永遠の救いよりも、

お金儲けの方が大切になってしまうことはないでしようか。



イエス・キリストは、

二千匹の豚が死ぬことより、

この2人の人が悪霊から解放されることの方が

大切で重要なことだと、示されたのです。



私たちも、

イエス・キリストから目を離さず

いつも、キリストの心を持って、

イエスと共に歩みたいですね。