2016年6月30日木曜日

6/30(木) 暴風雨をしかり静められるイエス






イエスは言われた。

「なぜこわがるのか、信仰の薄い者たちだ。」

それから、起き上がって、

風と湖をしかりつけられると、大なぎになった。

人々は驚いてこう言った。

「風や湖まで言うことを聞くとは、

  いったいこの方はどういう方なのだろう。」


       マタイの福音書8章27・28節





イエス・キリストは舟に乗り、向こう岸へ渡ろうとされました。

それで弟子たちもイエスに従って、一緒に舟に乗り舟を出しました。



すると、突然のようにガリラヤ湖に大暴風が起こり、

舟は大波をかぶって、弟子たちは、おぼれそうになりました。



ところが、この大暴風雨の中、イエスは眠っておられたのです。

よほど疲れておられたのか・・

それとも、父なる神を信頼しきっておられたので、

どんな嵐の中でも安心しきっておられたのか・・・

イエスは、眠っておられたのです。



弟子たちは、怖くて仕方ありません。

弟子たちの多くは漁師出身でした。

しかもガリラヤ湖の漁師でした。

ガリラヤ湖が、こういう状況になったらどうなるか、

知っていたからこそ、本当に怖かったのでしょう。



弟子たちは、眠っているイエスのところに来て、

イエスを起こして言いました。



「主よ。助けてください。私たちはおぼれそうです。」



イエスは弟子たちに言われました。

「なぜこわがるのか。信仰の薄い者たちだ。」



それから、イエスは起き上がって、風と湖をしかりつけられました。

すると、大なぎになったのです。



人々は驚き、思わずも言いました。

「風や湖までが言うことを聞くとは、

 いったいこの方はどういう方なのだろう。」



大暴風雨の中で、おぼれて死にそうになっているときに、

イエスは「なぜ怖がるのか、信仰の薄い者たちだ」と言われました。



つまり信仰があれば、怖がる必要はないのだと言われたのです。



どういうことなのでしょう。



イエス・キリストがともにいれば、嵐が来ようが大丈夫!

イエスが向こう岸に渡ろうとして舟を出したのだから、

必ず舟は向こう岸までたどり着くに決まっています。

だから恐れることはないと言われたのでしょうか。



確かにイエス・キリストが共におられれば、

どんな困難が来ても、どんな問題が許されても大丈夫です。

イエスが語られて始まったならば、

どんなことが許されようと、必ずそれは成就し全うされます。

なぜなら、イエスのことば、神のことばで始まったからです。



そうは言っても、やはり弟子たちには、怖かったと思います。

彼らはガリラヤ湖を知り尽くしており、

こういう暴風雨が来たら、おぼれてしまい、

場合によっては死んでしまうこともあることを、

知っていたからです。



でもイエスは、

「怖がることはない。信仰の薄い者たちだ。」と言われたのです。



そして起き上がると、風と湖、

つまり激しい波をしかりつけて静まらせてしまわれました。



弟子たちは本当に驚いたと思います。



イエス・キリストの権威と力がどんなに大きいのか、

自分たちの知り尽くしたガリラヤ湖でさえも、

イエスのことばの前には従うのだ、ということを知ったとき、

弟子たちは、

イエス・キリストの権威と力が、どんなに大きいのかを知り、

その権威と力は天からのもので、

イエスが神の子であることを頭ではなく体で感じ取り、

貴重な経験として実感したことでしょう。



私たちも、主イエスに従って行くときに、

嵐が許され、恐れと不安に見舞われることがあります。

しかし、そんなときは、イエス・キリストを起こしに

イエスのみもとに行きましょう。



イエス・キリストは、あなたのために起き上がり、

嵐を静め、イエス・キリストの権威と力が、

どんなに大きいのかを、あなたにも示してくださることでしょう。

2016年6月29日水曜日

6/29(水) 人の子であるイエスには枕する所もありません。






イエスは彼に言われた。

「狐には穴があり、空の鳥には巣があるが、

 人の子には枕する所もありません。」


    マタイの福音書8章20節



イエス・キリストのところに、

一人の律法学者がやって来て、こう言いました。

「先生、

 あなたのお出でになる所なら、どこにでもついてまいります。」



イエスは彼に、こう答えられました。

「狐には穴があり、空の鳥には巣があるが、

 人の子には枕する所もありません。」



狐には穴があって、休む場所、寝る場所がある。

空の鳥にも巣があり、帰る場所、ゆっくりと休む場所がある。

しかし、人の子には、枕する所、

つまりゆっくりと休み眠る場所もない。



人の子というのは、イエス・キリストのことです。



イエス・キリストには、

枕をしてゆっくりと休み、眠れる場所もなかったのです。



それほど福音宣教に生きていたイエスは、

人々を救い、病気をいやし、悪霊から解放し、

困っている人々を助けることに忙しかったのでしょう。



イエス・キリストが、

ゆっくりと安心して休める場所、



あなたのお出でになる所なら、どこまでもついていきます。

そう言った人に、

いやしや奇跡を行う華やかな主の栄光を見る働きの背後には、

枕する場所もない、そんな生活があるのですよ。

そんな毎日の生活に、あなたはついてこれますか。

そうイエスは聞きたかったのでしょう。



すると、また別のひとり弟子がイエスに、こう言いました。

「主よ。まず行って、私の父を葬ることを許してください。」



当然、いいですよ、とイエスが答えられるかと思ったら、

全く違う答えを言われました。



イエスは、彼に答えられました。

「わたしについて来なさい。

 死人たちに彼らの中の死人たちを葬らせなさい。」



イエスは、他の聖書の箇所では、

「手を鋤に付けてから振り向いてはならない」とも語られました。

一見すると冷たく聞こえる言葉ですが、そうなのでしょうか。



わたしは牧師になり、たくさんの方の葬儀に関わってきました。

また60歳近くになり、多くの方の死を、身近で見てきました。



そして思うことがあります。

正直に書くと、

多くの方は、家族や友人が亡くなり死を迎えると、

急に優しくなり、大切にする人が多いのです。

生きている時は、冷たくして、

時間をさいたり、お金をかけたりは、ほとんどしなかったのに、

亡くなると、急にお金をかけたりするのです。

でも、もうその人は、そこに生きてはいないのです。

生きている時に十分にしてあげることができなかったから、

という気持ちはわかります。

でもそれは、厳しい言い方をすれば、

残された人の自己満足でしかありません。

ひどい場合には、亡くなった方というより、

生きている人のメンツや立場のために、

死んだ人のために一生懸命している時さえあります。



イエス・キリストは、

もう亡くなって死んでしまった人のためではなく、

生きている人のために、生きなさい。と言われているのです。



もう少し突っ込んで言えば、

その人が生きている時に、

その人のために、福音を語り、主の愛を示し、

その人に仕えてあげなさい。

と言いたかったのではないでしょうか。



この人の場合は、父ですから、父が生きている時に、

父に仕え、父を敬い、愛を示して仕えてあげたなら、

もう何も思い残すことはないでしよう。

死んで天に行った父のことは、天に任せて、

あなたは今も生きている人たちのために、仕えなさい。

そのために、「わたしについて来なさい。」と言われたのです。



それに、この箇所で死んだ父は、ユダヤ人なので、

当然、聖書に書かれている唯一の神さまを信じていたと思います。ですから、天国へ旅立ったと思われます。

イエスは、天に行った彼らのことは

死人たち、天に行った人たちに任せて、

あなたは、わたしについてきなさい。



そして、まだこの永遠の命を受けていない

この地上の人たちのために働きなさい。と言われたのでしょう。



枕する所もないほどに、この地上には問題が山積しています。

天国を知らず、永遠の命を受けずに、

この世のことに振り回され、

この地上のことに翻弄されている人々が、

たくさん、たくさんいるのです。



もしわたしについてくるというなら、

まだイエス・キリストを知らず、

天国への確信のないまま、

永遠の命を受けずに生きている人たちのために、

あなたの時間を使いなさい。



そうイエス・キリストは言われたのでしょう。



そして、もしこの人の死んだ父が本当に天に行ったなら、

きっと、この人の父もそれを願っていることでしょう。



私たちは、本当に大切なものを見失わないようにして、

イエス・キリストについて行きましよう。

2016年6月28日火曜日

6/28(火) 悪霊を追い出し、病気の人々を直されるイエス





これは、預言者イザヤを通して言われたことが

成就するためであった。

「彼が私たちのわずらいを身に引き受け、

 私たちの病を背負った。」


         マタイの福音書8章17節




イエスは宣教の拠点、ご自分の町カペナウムに帰ってこられました。

そこには、ペテロの家がありました。

イエスが、そのペテロの家に来られると、

ペテロのしゅうとめが熱病で床に着いていました。

イエスは、それをご覧になると、すぐにしゅうとめのところに行き、

彼女の手に触られられました。

すると、熱は引き、彼女は起き上がり、イエスをもてなしました。



姑は熱が下がっただけでなく、

もてなしをすることができるぐらい元気に、体も心もなったのです。

ペテロも姑も嬉しかったと思います。

周りのみんなも喜び感動したことでしょう。



イエスは、熱病で寝ている姑を放ってはおけなかったのです。

これがイエス・キリストです。



あなたの家族や友人が病で床に着いていたら、

イエス・キリストのところに行きましよう。

イエス・キリストに祈り、求めましょう。

キリストは、決して、その人を病のままに放ってはおかれません。

その病の床のところに来て、その人に触れ、いやしてくださいます。

そして、体も心も健やかにして、

その人を、立ち上がらせてくださいます。



その姑の姿を見た人々は、

夕方になると、悪霊につかれた人を大ぜい、

イエス・キリストのみもとに連れてきました。

イエス・キリストは、みことばをもって霊どもを追い出し、

また病気の人々もみなお直しになりました。



イエスは、全員悪霊から解放し、病気をいやされたのです。

イエス・キリストは、

すべての病気をいやし、

悪霊を追い出されたのです。



イエス・キリストには直せない病気も、

追い出せない悪霊もいないのです。



実は、このことは、

旧約聖書の預言者であるイザヤが預言していたことの成就でした。

イザヤ書には、こう書いてあります。



「彼が私たちのわずらいを身に引き受け、私たちの病を背負った。」



彼とは、もちろん、神のひとり子、イエス・キリストのことです。



イエス・キリストが、

私たちのわずらいを引き受け、

私たちの病を背負ったのです。



だから、私たちの病気はいやされ,

私たちのうちから悪霊は追い出されるのです。

2016年6月27日月曜日

6/27(月) ことばを求めた百人隊長












イエスは、これを聞いて驚かれ、
ついて来た人たちにこう言われた。
「まことに、あなたがたに告げます。
わたしはイスラエルのうちのだれにも、
このような信仰を見たことがありません。
それから、イエスは百人隊長に言われた。
「さあ行きなさい。  
あなたの信じたとおりになるように。」
すると、ちょうどその時、そのしもべはいやされた。


マタイの福音書8章10・13節



イエスはご自分の町、カペナウムに帰ってこられました。

すると、一人の百人隊長が、

イエスのみもとにやって来て、懇願して言うのです。



「主よ。私のしもべが中風やみで、

 家に寝ていて、ひどく苦しんでおります。」



しもべというのは奴隷ですから、

この百人隊長は、自分の奴隷のためにわざわざイエス・キリストのところに来て、

直してくださいと懇願したのですね。

おそらくとても立派な方だったのでしょう。

しかも、この奴隷の青年を、

我が子のように大切に思っていたのでしょう。



イエスはすぐに答えて言われました。

「行って、直してあげよう。」



イエス・キリストは異邦人である百人隊長の願いに、

すぐに答えてくださったのです。



ところが、百人隊長は、

「ありがとうございます。すぐに来てください。」

とは言わなかったのです。



百人隊長は答えてこう言ったのです。



「主よ。

 あなたを私の屋根の下にお入れする資格は、私にはありません。

 ただおことばをいただかせてください。

 そうすれば、私のしもべは直りますから」



ルカの福音書には、

あの誇り高いユダヤ人たちが、この百人隊長のことを

「この方はそうしていただく資格のある人です。」

とイエスに言っています。



ところが本人は、

「とても自分の家の屋根の下に、

 イエス・キリストをお入れする資格はありません。」

と言ったのです。

百人隊長はローマ兵、ローマの軍人でした。

つまり異邦人だったのです。

彼は異邦人である自分にはその資格はないと知っていたのです。

でも皆さん、当時は、ローマがイスラエルを支配していました。

ローマの方がイスラエルより強く力を持っていたのです。



しかし、このローマ兵は、異邦人である自分は、聖書から言えば、

本来、イエスをお迎えする資格はないと知っていたのです。

この百人隊長は謙遜でした。

本当にへりくだった人だったのです。



しかし、イエスを屋根の下にお入れする資格はないと言いましたが、

さらに続けてこう言ったのです。

「ただお言葉をいただかせてください。」と。



これは、もう少し原語に近いニュアンスにすると、

「一言でいいのです。一言仰ってください。

 そうすれば私のしもべは治りますから。」と言ったのです。

一言でいい。

Only One Word


イエス・キリストが一言語られれば、

それで、このしもべは直ると百人隊長は信じていたのです。



なぜ、彼はそう信じることができたのでしょう。

続けて百人隊長は、こう言っています。



「と申しますのは、私も権威の下にある者ですが、

 私自身の下にも兵士たちがいました、

 そのひとりに『行け。』と言えば行きますし、

 別の者に『来い。』と言えば来ます。

 また、しもべに『これをせよ。』と言えば、

 そのとおりにいたします。」



当時のローマの軍隊は最強でした。

強い軍隊の特徴は秩序がしっかりしていて、命令が通るのです。

百人隊長は百人の部下がいましたが、

その部下に『行け』いけと言えば行くし、『来い。』と言えば来る、

さすがはローマの軍隊です。



私でさえ、そうなのだから、

ましてイエス様、あなたには権威がある。

病気であろうと、悪霊であろうと、

自然であろうと、その法則であろうと、

イエス様、あなたが一言、仰っれば、一言命令してくだされば、

私のしもべは直るのです。

そう百人隊長は信じていたのです。



確かにイエス・キリストには権威があります。

天においても地においても、

いっさいの権威がイエス・キリストにはあるのです。

この地上でイエス・キリストの権威に従わないものはないのです。



百人隊長は異邦人でしたが、それを知っていたのです。

そして、信じていたのです。



イエスは、これを聞いて驚かれて、

ついてきた人たちにこう言われました。



「まことに、あなたがたに告げます。わたしはイスラエルのうちのだれにも、

このような信仰を見たことがありません。」と。



そして百人隊長に向かって言われました。

「さぁ、行きなさい。あなたの信じたとおりになるように。」



イエスがそう言われると、

ちょうどその時、

百人隊長のしもべはいやされました。



百人隊長の信仰はイエス・キリストを驚かしました。

そしてその信仰をイエス・キリストは褒められたのです。



私たちも彼のように、信仰をほめられる者になりたいですね。



百人隊長はイエス・キリストの権威を知っていました。

そして言葉を求めたのです。

わざわざ来て下さらなくても、

ことばを一言頂ければ、それでこのしもべは直ると信じたのです。



私たちもイエス・キリストの権威を信じて、

大胆にキリストとから「ことば」を求めましょう。



キリストのことばに権威とは力があります。

キリストのことばは病気をいやし、悪霊からから解放し、

キリストのことばは、無から有を創造し、壊れた関係を回復し、

キリストのことばは、サタンの支配を砕き、

あなたとあなたの愛する者に、勝利と栄光をもたらします。



イエス・キリストは、あなたに今日も語ってくださいます。



「あなたの信じたとおりになるように。」と。



6/27


6/26(日) らい病をいやされたキリスト「わたしの心だ。きよくなれ。」






ひとりのらい病人がみもとに来て、ひれ伏して言った。
「主よ。お心一つで、  
私をきよめることがおできになります。
イエスは手を伸ばして、彼にさわり、
「わたしの心だ。きよくなれ。」と言われた。
すると、すぐに彼のらい病はきよめられた。


マタイの福音書8章2・3節



イエスの山上での説教は終わりました。

人々はイエスの教えに驚きました。

それはイエスが律法学者のようにではなく、

権威ある者のように教えられたからです。



つまり、イエスのことばには力と権威が満ちていたのです。



それでイエスが山を降りて来られると、

多くの群衆がイエスに従い、ついてきました。

イエスから離れたくなかったのでしょう。



そこへ、ひとりのらい病人がやってきました。



らい病というのは体が腐ってくる病気ですが、

当時、らい病になると、

単に肉体が病で汚れているというだけではなく、

宗教的にも汚れているとされ、

社会的にも隔離され、家族からも引き離されて、

らいの谷という所で住まなければなりませんでした。



もし、人がらい病の人に触れると、

その触れた人も汚れるとされていたのです。

また、らい病の人は、

どうしても人々のいるところに来なければならない時は、

体を衣で隠し、「私はらいです。私はらいです。」

と叫びながら歩かねばなりませんでした。



ですから、このらい病の人は、

イエス・キリストの周りにたくさんの群衆がいるのにもかかわらず、

イエスのところに来たということは、

本当にイエスのところに行けば、必ずきよめて直して下さる、

と信じて期待していたのでしよう。



彼はイエスのみもとに来て、ひれ伏して言います。

「主よ。お心一つで、私をきよめることがおできになります。」



この「ひれ伏して」というのは、

「拝んで」と訳せることばで、礼拝を意味します。

ユダヤ人であった彼にとって、

礼拝する方は唯一の神さましかいません。

ということは、

彼はイエス・キリストが神であると信じていたのです。

つまり、イエス・キリストこそが、

メシアなる救い主であると信じて、イエスのみもとに来たのです。



そしてイエスを礼拝しました。

必ずイエスが自分のらい病をきよめて下さる、

いやして下さると信じて期待して、

礼拝したのです。



「主であるイエスさま、あなたには私をきよめることができます。   

あなたが御心としてくだされば、私のらい病はきよめられるのです。」



彼は信じていました。

イエス・キリストは汚れた病であるらい病になってしまった自分を、

必ずきよめることを、御心として下さると、信じていました。



イエス・キリストは裁くためではなく、救うために来てくださった、

責めるためではなく、赦すために来てくださったことを、

信じて知っていたのです。



「主イエスさま、

 あなたは、私をきよめることを御心としてくださいますよね。」

心の中でそう叫びながら、

イエスのみもとにひれ伏し、叫んだのです。



イエスはすぐに手を伸ばして、彼にさわり、

「わたしの心だ。きよくなれ。」と言われました。



すると、すぐに彼のらい病はきよめられ、いやされたのです。



マルコの福音書には、

「イエスは深く憐れんで手を伸ばし」と書いてあります。

らい病人には触れてはいけないのです。

触れると、その触れた人も汚れるのです。



しかしイエスは、このらい病人の真剣さ、必死さ、

そして何よりも、その信仰を見て、

心の深いところからあわれみが湧き上がってきたのです。

この深く憐れんでというのは、

言語では内臓を引きちぎるような感情を意味します。



ですから、イエスは本当に、

このらい病人の眼差しを見、叫びを聞いたとき、

心が沸き立って放って置けなくなったのでしょう。



思わずも手を伸ばし、らい病の彼にさわり、そして言われました。

「わたしの心だ。きよくなれ。」と。



イエス・キリストは、彼に触らなくても、

「わたしの心だ。きよくなれ。」と言えば直せたのです。

別に触る必要はなかったのです。



でもイエスは触られました。



きよくなる前に、らい病のままの彼に触られました。



あなたは、そのらいのままで、わたしは愛している。

きよめられて、らいがなくなったら、愛するのではなく、

らいのある今のままで、わたしはあなたを愛している。。

そう言われたかったのでしょう。



らい病の人は嬉しかったと思います。

家族でさえ、触れてはいけないと引き離されていたのに、

イエスは、このらい病の人にさわり、

それから「わたしの心だ。きよくなれ。」と言われたのです。



イエスが、そう言われた瞬間、

この人のらいはきよめられ、癒されるのです。



イエスは、癒された彼に言われます。

「気をつけて、だれにも話さないようにしなさい。

 ただ、人々へのあかしのために、

 行って、自分を祭司に見せなさい。」と。



らい病がきよめられて直ったことを宣告するのは、

祭司の仕事でした。

「その祭司に見せなさい。」と言われたのは、

きちんと正しい手続きを踏んで、正式に清められ、

癒されたことを認めてもらい、社会復帰するように言われたのです。



イエスは、このらい病の人をきよめ、いやして家族の元へ、

社会へ復帰させたのです。



同じように主は、あなたが、どのような弱さの中にあっても、

たとえ罪の中にあっても、

あなたが「きっとイエスは赦してくださり、いやしてくださる。」

と信じてイエスのみ元にやって来るならば、

主イエスは、その叫びに答えて、

必ずきよめていやしてくださるのです。



そして、あなたを家族の所へ、社会へ戻してくださるのです。






2016年6月25日土曜日

6/25(土) 岩の上に自分の家を建てた賢い人








「だから、
わたしのこれらのことばを聞いてそれを行う者はみな、
岩の上に自分の家を建てた賢い人に比べることができます。
雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけたが、
それでも倒れませんでした。
岩の上に建てられていたからです。」


          マタイの福音書7章24節



イエス・キリストは、山上の説教の最後に、

岩の上に家を建てた賢い人と砂の上に家を建てた愚かな人のことを

比べて話をされました。



「わたしのこれらのことばを聞いて、それを行う者はみな、

 岩の上に家を建てた賢い人に比べることができる。」



つまり、イエス・キリストのことばを聞いて、

心から受け入れ信じた人は、

そのことばを行う、

つまりイエスの語られたことばに従って生きるようになります。



そうすると、

イエス・キリストのことばは神の言葉なので、

岩の上に建てた家は、

堅い岩が土台なので、

雨が降って洪水が押し寄せ、

風が吹いてその家に打ち付けても

決して倒れないように、



イエスのことば、

神の言葉を土台にしているならば、

どのような試練や問題という洪水が押し寄せ

風が吹いて嵐になっても、

私たちは決して倒されることはないのです。



なぜなら、堅い神の言葉が土台だからです。



一方、イエス・キリストのことばを聞いても、

それを信じす、受け入れないで、行わない、

つまり従わないでいるなら、

砂の上に家を建てた愚かな人のように、

雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ち付けると、

倒れてしまうのです。



しかもひどい倒れ方をするのです。



人生の歩みの中で、試練や困難という雨が降り洪水になり、

問題や混乱という風が吹き嵐になる時、

私たちは立っていられなくなり倒されてしまいます。

それは神の言葉であるイエスの語られたことばを聞いても行わない、つまり信じないで従わなかったからです。



私たちは、イエス・キリストの語られているとことばに耳を傾け、そのことばを信じて従う時、

豊かな恵みを受け、

どのような試練や問題、困難の中にあっても、

必ず勝利と祝福を受けるのです。



しかし、神さまのことばを信じず蔑み、従わないでいるなら、

神さまの用意された祝福と勝利を受けることなく、

困難や問題が許される時、

その苦しみの中に飲み込まれてしまうのです。



イエス・キリストが語られた神の言葉に心をとめ、

信じて従って行きましよう。

どのような困難や問題が許されても、

神さまの勝利と祝福を豊かに見ることができるように。

2016年6月24日金曜日

6/24(金) 天におられる父のみこころを行う





「私に向かって、 『主よ、主よ。』と言う者が  
みな天の御国に入るのではなく、  
天におられる  
わたしの父のみこころを行う者が入るのです。」


        マタイの福音書7章21節



イエス・キリストは、言われました。

わたしに向かって、『主よ、主よ。』と言ったからといって、

天の御国に入れるわけではないと。



これはどういうことでしょうか。

『主よ』と祈っても無駄なのでしょうか。

もちろん、そういうことではありません。

こう言われた後に続けて、

「わたしの父のみこころを行う者が入るのです。」

と言われています。



では、みこころを行わないと入れないのでしょうか。

もし、みこころを間違えてしまったらどうなるのでしょう。

真面目に誠実に歩んでいるクリスチャンほど、

自分はみこころを行っているだろうかと

不安になってしまうかもしれません。



でも、ここは、

この後に、さらにイエスが言われた話にポイントがあります。



「その日には、大ぜいの者がわたしに言うでしよう。

 『主よ、主よ。私たちはあなたの名によって預言をし、

 あなたの名によって悪霊を追い出し、

 あなたの名によって奇蹟をたくさん行ったではありませんか。』

 しかし、その時、わたしは彼らにこう宣告します。

 『わたしはあなたがたを全然知らない。

 不法をなす者ども。わたしから離れて行け。』」



イエス・キリストの名によって、

預言をし、悪霊を追い出し、奇蹟を行ったと言った人に、

イエスはこう答えられています。

「わたしはあなたがたを全然知らない」と。

これは普通ありえない答えです。



私のこどもが私のところに来た時、全然知らないとは言いません。もちろん、怒ったり戒めたりすることはあるでしょう。

しかし、全然知らないとは言いません。

つまり、この人たちは、イエス・キリストの名を使っていても実は、

キリストを信じてはいない人たちなのです。

だからイエス・キリストは、『全然知らない。』と言われ、

奇蹟や悪例追い出しをしたのに、

『不法をなす者ども。わたしから離れていけ。』と言われたのです。



つまり、キリストを信じていないので、

当然、『主よ。』と祈っていても、

それは本当の主、つまりキリストには向かってはいないのです。

ですから当然、主の御心がわかりませんし、

主のみこころを行うことはできないのです。



イエス・キリストを信じている私たちは、

『主よ。』と祈る時、主イエスに心を向けて祈ります。

そして主から語りかけを受け、主の言葉を頂くのです。

もちろん、すぐには従えないこともあるでしょう。

でも主にすがりながら、主の導きに従って行く時、

私たちは、主の御心の中を歩めるのです。

主の恵みによって、主のみこころを行わせていただくのです。



だから、私たちは天の御国に入ることができます。



なせなら、イエス・キリストを信じているので、

私たちのうちに御霊が住まわれているので、

みこころを行わせてくださるからです。

2016年6月23日木曜日

6/23(木) 実によって見分ける。






あなたがたは、
実によって彼らを見分けることができるのです。


     マタイの福音書7章20節



イエス・キリストはさらに、見分けについて語り始められます。

まず、偽預言者の見分けからです。



「にせ預言者たちに気をつけなさい。

 彼らは羊の形をしてやってくるが、うちは貪欲な狼です。」



ではどうしたら、それを見破り見分けることができるのでしようか。

その答えを、イエスは続けて言われました。



「あなたがたは、実によって彼らを見分けることができます。

 ぶどうは、いちじくからは取れないし、

 いちじくは、あざみから取れるわけがないでしよう。」



つまり、実を見ればわかると言われたのです。



「同様に、良い木はみな良い実を結ぶが、

 悪い木は悪い実を結びます。 

 良い木が悪い実をならせることはできないし、

 悪い木が良い実をならせることもできません。」



その実を見れば、良い木なのか、悪い木なのかがわかるように、

偽預言者かどうかも、実を見ればわかるのです。



ただ注意しないといけないのは、

本物の預言者でも、まだ信仰生活の成長の過程の段階では、

聖霊の実が十分についていないように見える時があります。

それを見て、すぐににせ預言者だというのは間違いです。

特に、感受性が豊かで、

目に見えない霊的な世界に対しても敏感に反応しやすい人が、

成長の過程で、

信仰の浮き沈みが激しく、感情の安定に欠く時があります。

それを見てすぐに、

実が付いていないから、偽預言者だというわけではありません。



この後で、イエス様が言われていますが、

にせ預言者には、

神様を信じていれば、当然ついてくる実が付いていない、

にせ預言者は実は救われていない、

つまりイエス・キリストを、本当は信じていない預言者なのです。ですから、当然イエスの実はつきません。



このことについては、また明日、さらに詳しく学びましょう。

2016年6月22日水曜日

6/22(水) 狭い門から入りなさい。


 
 
狭い門から入りなさい。
滅びに至る門は大きく、その道は広いからです。
そして、そこから入って行く者が多いのです。
いのちに至る門はちいさく、その道は狭く、
それを見いだす者はまれです。
      マタイの福音書713、14
 
 
イエス・キリストが言われた、
「狭い門から入りなさい。」
 
この言葉は、
フランスのアンドレ・ジイドが
小説の題にしたように、有名な言葉の一つです。
 
でも正しくは理解されていないようですね。
 
狭い門から入りなさいとは、どういうことでしょうか。
 
この狭い門とは天国への門のことです。
私たちは、罪を持ったまま、
自分のやりたいことをやろうとする肉の欲望を持ったままでは、
この天国への狭い門を入ることはできないのです。
 
一方、滅びに至る門、分かりやすく言うと、地獄に入る門は、
大きくて、その道は広いので、罪を持ったままで、
自分のやりたいことを、
好き勝手にやろうとする肉の欲望を持ったままでも、
十分に入ることができるのです。
そして、そこを通って入って行く者はたくさんいるのです。
 
しかし、永遠のいのちを受け、救いに至る天国への門は、
極めて小さく、その道は狭いので、
罪や自分のやりたいように生きようとする欲望を持ったままでは
入ることはできないのです。
それで、そこを通って行く人はまれにしかいません。
 
ではどうすれば、この狭い門から入れるのでしょう。
どうすれば、永遠のいのちを受け、
この狭い門から入って天国へ行けるのでしょう。
 
それは、イエス・キリストの十字架を信じることです。
 
自分に罪があることを認めて、
自分のやりたいように自分勝手にしようとする欲望が、
自分にあることを認めて、
神さまの前に悔い改め、
イエス・キリストの十字架を信じて、
その自分の罪の赦しを受け、
復活のいのちに預かって、永遠のいのちを受けることです。
 
そのとき、罪が赦され、罪の縛りから解放されて、
狭い門から入ることが出来るようになるのです。

2016年6月21日火曜日

6/21(火) 自分にしてもらいたいことをする



それで、何事でも、
自分にしてもらいたいことを、
他の人にもそのようにしなさい。
これが、律法であり、預言者です。
           マタイの福音書7章12


日本人は、よくこう言います。
「自分が、他人からされたくないことは他人にはするな。」
「自分がされると嫌なことは自分も他人にはしない。」

これは、否定、否定の教えです。
つまり、自分が嫌なこと、されたくないこと、
という否定的なことは、
他人にもしない、するな、という否定で教えられます。

私たちは、この否定、否定の中で育まれました。
この否定、否定の教えは、マイナスを避ける考え方です。
ですから、失敗をしないように、
できる限りミスをしないようにという考え方になっていきます。
言い換えれば律法的と言いましょうか。
こうしなければいけない、
こうしてはいけないという思いに捉えられていきます。

ところが、聖書は、その逆なのです。
「自分がしてもらいたいことを、他人にもしてあげなさい。」

つまり、肯定、肯定なのです。
自分がしてもらいたいという肯定を、
他人にもしてあげる、他人にもするという肯定なのです。

このように、聖書の教えは、肯定、肯定ですから、
とても積極的になっていきます。
どうしてかというと、
他人にしてもらって嬉しいことは、自分も他人にしてみようと、
とにかく良いことにはチャレンジしてみよう、
という前向きな姿勢になっていきます。

つまり、失敗を恐れずにチャレンジするようになるのです。

そうして自分にしてもらいたいことを積極的に他人にもすることが
神さまの教えであり聖書の教え、つまり律法であり預言者なのです。
そして、それは「愛」でもあります。
私たちが恐れずに、自分がしてもらいたいと思うことを、
他人にも同じようにしてあげること、
他人にもしようとチャレンジしていくことは、「愛」なのです。

2016年6月20日月曜日

6/20(月) 求めなさい。そうすれば与えられます。





求めなさい。そうすれば与えられます。
捜しなさい。そうすれば見つかります。
たたきなさい。そうすれば開かれます。
だれであれ、求める者は受け、
捜す者は見つけ出し、
たたく者には開かれます。
     マタイの福音書7章7・8節

今日のみことばは、祈りの原点ともいうべき有名なみことばです。
「求めなさい。そうすれば与えられます。」
これは、求め続けなさい。と訳せることばです。
つまり、求め続けるなら、必ず答えられる。与えられる。
ということです。

祈るとき重要なことは、まず願うことです。
願いがあるかどうかというのは、
祈りにおいて、とても大切なことです。

もちろん、願うことさえ出来ないくらい弱められる時や、
求める力さえ、無くなってしまうときもあります。
しかし神さまの恵みの中で、
私たちのうちに願いが与えられるのです。
その願いを求める時、神さまは答えて与えてくださるのです。

ただ、すぐに与えられる時もありますが、
すぐには答えられず、求め続けなければならない時があります。
その求め続ける中で、本当にそれを願い、
神さまが与えてくださると信じるかという試しを通るのです。
信仰が試され忍耐が問われるのです。

神さまは求め続ける時、必ず答えて与えてくださいます。
もちろん主の御心にかなうなら、という大前提がありますが。

ただ主の御心というと、
とても狭く、もうダメだと思ってしまう方が多いような気がします。主の御心はそんなに小さくありません。
私たちの信じている聖書の神さま、
真の神様は、そんなに小さな方ではありません。
天地万物を創造されたた偉大なお方です。

イエス・キリストは、愛と憐れみに満ちたお方です。

だから大胆に、ためらわずに、
あなたの願いを、主の前に注ぎだして求めてください。
もしも御心に叶わないなら、
あなたの心を変え、御心にかなう願いを与えてくださいます。

さらにイエスは言われました。

「あなたがたも、自分の子がパンを下さいという時に、
 だれが石を与えるでしょう。
 また、子が魚を下さいと言うのに、だれが蛇を与えるでしょう。
 してみると、あなたがたは、悪い者ではあっても、
 自分の子どもには、良い物を与えることを知っているのです。
 とすれば、なおのこと、天におられるあなたがたの父が、
 どうして、求める者たちに
 良いものを下さらないことがありましょう。」

この例えは面白いですね。
子どもがパンを下さいと言う時に石を与えるだろうか、
子どもが魚を下さいと言う時に、蛇を与えるだろうか。と、
パンと石、魚と蛇、が出てきますが、
これはあまりにも違いすぎる例えです。
大げさに言うことによって、わかりやすくしているのだと思います。

それとともに、異邦の神を信じている人たちは、
神さまに求める時に、多くの場合は、
下手なことをいうと、祟りが怖いと思っていたりするのです。
日本の諺に「触らぬ神に祟りなし」と言うのがありますが、
まさに異邦の神、つまり悪霊に対してはそうなのでしょう。

しかし、私たちの信じている真の神さまは違います。
パンを求めれば、
一番美味しい最高のパン与えてくださるのです。
魚を下さいと頼めば、
今、一番旬の最高の魚を与えてくださるのです。

親が子どもに一番良い物を与えるように、
父なる神さまも最善にして最高の物を、与えてくださるのです。

だから、素直に、大胆に、ためらわずに、厚かましいほどに、
主に求めましょう。 

あなたが与えられるには自分はふさわしくない、と思ったとしても、
遠慮せず、大胆に求めてください。
ふさわしくない物が受けるのを「恵み」と言います。
私たちの信じている神さまは、恵みに満ちているお方なのです。

だから、イエス・キリストの名によって、大胆に主に求めましょう。
答えられるまで、求め続けましょう。
与えられるまで、信じて祈り続けましょう。

主イエス・キリストは、必ず答えてくださいます。
父なる神さまは、最善にして最高のものを必ず与えてくださいます。

2016年6月18日土曜日

6/18(土) 聖なるものが生かされるために・・


 聖なるものを犬に与えてはいけません。
また豚の前に、真珠を投げてはなりません。
それを足で踏みにじり、
向き直ってあなたがたを引き裂くでしょうから。
        マタイの福音書7章6

日本の諺に、猫に小判というのがありますね。

それと同じような言葉が聖書にもあるのです。
それが、この場所です。
イエスは言われました。

「聖なるものを犬に与えてはいけません。」

どうしてかというと、
犬にとっては、聖なるものも価値がないのです。
ですから、犬には何の役にも立たないのです。
聖なるものも、犬に投げられても、生かされないのです。

同じように、
豚の前に真珠を投げても、
真珠の価値は生かされないどころか、
踏みにじられてしまうのです。
豚に取っても、真珠に取っても、意味がないのです。

私たちは、
聖なるもの、神さまのものを、
本当に正しく用いられるところ、
価値あるものが、価値あるものとして生かされる場所に投げる、
つまり、用いていかないといけないのですね。

2016年6月17日金曜日

6/17(金) さばいてはいけません。さばかれないためです。



「さばいてはいけません。さばかれないためです。」
            マタイの福音書7章1節

日本の諺?に、
「人のふり見て我がふり直せ」というのがありますが、
私たちはともすれば、
他人のことをあれこれと悪く言って、
批判したり裁いたりしてしまいます。
でも、そう言って他人のことを悪く言っている当の本人が、
同じことをしていることは、よくあることです。

イエスは言われました。
「裁いてはいけません。」と
それは「裁かれないためです。」と。

さらに
「あなたがたがさばくとおりに、あなたがたもさばかれ、
 あなたがたが量るとおりに、あなたがたも量られるからです」と。

どうしても、わたしたちは他人には厳しく、自分には甘いものです。
だから、他人の悪いことにはすぐ気がつくのですが、
自分の悪いことには、なかなか気づかないのですね。

イエスは面白いことを言われました。
「また、なぜあなたは、兄弟の目の中のちりに目をつけるが、
 自分の目の中の梁には気がつかないのですか。
 兄弟に向かって、
 『あなたの目のちりを取らせてください。』
 なとどどうして言うのですか。
 見なさい。自分の目には梁があるではありませんか。」

梁とは、分かりやすく言うと、
家などの建物の柱のことで、とても太く大きいのです。
つまり、自分の中にある梁、
大きな問題点には気がつかないのに、
他人の中にあるちり、
どんなに小さい問題点でも気がつくというのです。

確かに私たちには、そういう傾向性がありますね。
だから、
「まず、自分の目から梁を取りのけなさい。」とイエスは言われ、
「そうすれば、はっきり見えて、
 兄弟の目からもちりを取り除くことができます。」
と続けて言われました。

まず自分自身の中にある梁、
大きな問題点を神さまに祈り、取りのけてもらいましよう。
自分の中にある大きな欠けと弱さを、
神さまの大きな愛で覆っていただきましょう。

その上で、他人の中にあるちり、
小さな問題に対して、愛をもって助言をし、
小さなかけや弱さを神さまの愛をもって助けてあげましょう。

人の裁きは、神の祝福をもたらしはしません。
裁きは神のものです。

2016年6月16日木曜日

6/16(木) 神の国と神の義を第一にすれば、すべては与えられる。


 「神の国とその義とをまだ第一に求めなさい。
 そうすれば、
 それに加えて、これらのものはすべて与えられます。」
        マタイの福音書633

ふたりの主人に仕えることはできない。
つまり神にも仕え、富にも仕えることはできない。
と言われた後、イエスはこう続けられました。

「だから、わたしはあなたがたに言います。
 自分のいのちのことで、
 何を食べようか、何を飲もうかと心配したり、
 また、からだのことで、
 何を着ようかと心配したりしてはいけません。
 いのちは食べ物よりたいせつなもの、
 からだは着物よりたいせつなものではありませんか。」

何を食べるか、何を飲むか、と食べ物のことを心配したり、
何を着るかと着物のことを心配したりする必要はありません。
とイエスは言われるのです。
つまり毎日生活し、生きていくために、
どうしても必要な物のために心配する必要はないと言われるのです

その理由を、イエスは続けて言われます。

「空の鳥を見なさい。
 種蒔きもせず、刈り入れもせず、倉に納めることもしません。
 けれども、
 あなたがたの天の父がこれを養っていてくださるのです。
 あなたがたは、鳥よりも、もっとすぐれたものではありませんか。

種蒔きも刈り入れも倉に収めることもしない空の鳥でさえ、
天の父なる神さまは養ってくださるのです。
まして私たち人間を、
イエス・キリストを信じて神の子とされた私たちを、
どうして養ってくださらないわけがあるでしょうか。

神さまは必ず私たちを養って,
飢えず乾かず、お腹いっぱいにしてくださるのです。

そのことを信じればいいのです。
信仰を働かせればいいのです。

さらにイエスは、続けて語られます。

「あなたがたのうちだれが、心配したからといって,
 自分のいのちを少しでも延ばすことができますか。」

どんなに心配しても、
私たちは、自分のいのちを伸ばすことは、できないのです。
神さまを信じ、神さまにより頼んで生きることが
一番確かで、確実な生き方なのです。

イエスの言葉は続きます。
今度は、着物のことについても語られました。

「なぜ着物のことで心配するのですか。
 野のゆりがどうして育つのか、よくわきまえなさい。
 働きもせず、紡ぎもしません。
 しかし、わたしはあなたがたに言います。
 栄華を窮めたソロモンでさえ、
 このような花の一つほどにも着飾ってはいませんでした。
 きょうあってもあすは炉に投げ込まれる野の草さえ、
 神はこれほどに装ってくださるのだから、
 ましてあなたがたによくしてくださらないわけがありましょうか。
 信仰の薄い人たち。

着物のことも神さまは、
私たちに何が一番ふさわしいか、よく似合うかご存知で
本当に良いものを備えてくださるのです。

野に咲くゆりの花でさえ、
神さまは、本当に美しく装ってくださっているのです。
その美しさは、栄華を究めたソロモンのときにも勝るのです。
まして、私たち人間に
イエス・キリストが、よくしてくださらないわけはないのです。

そのことを信じて、信仰を働かせれば、
神さまの完全な愛の守りと助けが与えられるのです。
イエス・キリストが支えてくださるから、大丈夫なのです。

何を食べるか、何を飲むか、何を着るか、などと言って
心配する必要はないのです。

こういうものはみな、
まことの神さまを知らない異邦人が切に求めているものです。
しかし、私たちの信じている天におられるまことの神さまは、
それがみな私たちに必要であることを知っておられます。

だからイエスは最後に、こう言われました。

「だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。
 そうすれば、それに加えて、これらのものは全て与えられます。
 だから、あすのための心配は無用です。
 あすのことはあすが心配します。
 労苦はその日その日に、十分あります。」

神の国とその義とを第一に求める。
つまり、神さまの完全なご支配と神さまの完全な正しさを
第一に、何にも増して求める。
わかりやすく言えば、
神の御心を求める。
神さまの御心、つまり神の導きに従って行き、
神さまの願っておられることをすることを、
本当に求め、そこに生きるなら、すべての必要は満たされるのです。
食べ物も飲むものも、着るものも、
一番ふさわしい最善にして最高のものを、
神さまは備えてくださるのです。

だから、明日のことをあれこれ心配する必要はないのです。
明日のことは明日になって心配すればいいのです。
今日1日を主イエスを愛し、主イエスに従って、
主の御心を求めて、誠実に生きればいいのです。