2016年12月10日土曜日

12月10日(土) 宣教開始—悔い改めなさい④







愛する者たち。

私たちはこのような約束を与えられているのですから、

いっさいの霊肉の汚れから自分をきよめ、

神を恐れかしこんで聖きを全うしようではありませんか。


        

コリント人への手紙 第二 7章1節







きよめの力



悔い改めというと、

私たちはどうしても過去の罪の赦し、

今まで犯してしまった罪の赦しということばかりに

目が向いてしまいます。



しかし、主の十字架の力は、過去にだけとどまるものではないのです。



ヨハネの手紙 第一の1章9節の御言葉の中に、



「すべての悪から私たちをきよめてくださいます」



とありますが、

この「きよめる」という言葉は、

罪の染みを取り除くという意味があります。



つまり、私たちの過去に犯した罪を赦して、

義としてくださり、

白くしてくださるだけでなく、



これから後の将来においても、

その告白した罪と誘惑に打ち勝っていく力が、

主の十字架から与えられてくる、



ということなのです。



主は私たちが、

真実に自分の罪を告白するとき、

私たちを赦し、きよめて、

すべての悪に打ち勝つ勝利者として、

本当の姿へと変えてくださるのです。



「悔い改め」は、

私たちの過去をきよめるだけでなく、

私たちの将来、未来までもきよくする力があるのです。



なぜなら、

私たちの信じている神さまは、時間を創造され方であり、

主イエス・キリストには、不可能はないからです。


2016年12月9日金曜日

12月9日(金) 宣教開始—悔い改め③





私は、自分の罪を、あなたに知らせ、
私の咎を隠しませんでした。

私は申しました。

「私のそむきの罪を主に告白しよう。」

すると、あなたは私の罪のとがめを赦されました。






         詩篇32篇5節





自分の罪を悔い改める



さらに悔い改めるとき、

注意しなければならないことがあります。



真剣であるにもかかわらず、的がはずれてしまい、

十分に、主の祝福を見ていないことがあるのです。



ヨハネの手紙第一に



「私たちが自分の罪を言い表すなら、

 神は真実で正しい方ですから、

 その罪を赦し、

 すべての悪から私たちをきよめてくださいます」



とあるように、

私たちは「自分の罪」を言い表し、悔い改めるのです。



ところがしばしば、自分の罪ではなく、

他人の罪を悔い改めている人がいるのです。



特に、とりなしの祈りのときに、よくあるのですが、

他の人の罪を、一生懸命言い表して悔い改めている方がおられるのです。



夫や妻のことを祈るときも、

子どものことを祈るときも、

日本のことを祈るときも、

気づいてみれば、



「あの人は、こんな悪いことも、

 あんなどうしようもないこともしていますが、

 どうか憐れんでください。

 赦してください」



と祈るのです。



「この国は、偶像礼拝と姦淫の罪で満ちていますが、

 どうか彼らを憐れんでください」



と祈るのです。



なるほど、この祈りは間違いではありません。



しかし悔い改めは

「他の人」の罪を告白するのではないです。



あくまで

「自分の罪」を告白するのです。



自分の罪を告白するときに、

主は喜んで赦し、

十字架の力が流れてくるのです。



日本の罪を悔い改めるときも、

私たちは自分のこととして、祈らなければなりません。



「私たちの偶像礼拝の罪、

 この汚れに満ちた姦淫の罪、

 この私たちの罪をどうか赦してください。



 私たちは、まだあなたの事を知らず、

 本当の神様がわからないでいるのです。

 それはイエス様を知っている私が、

 彼らに、十分に、あなたのことを伝えていないからなのです。

 それは、私の罪、私たちの罪です。

 どうか私を赦し、私たちのこの国を憐れんでください」



と祈るべきなのです。



ひとりの韓国人のクリスチャン女性が、

ある日本人男性と結婚しました。



彼は暴力団の幹部だったのです。

彼女は、そのことを知りませんでした。

結婚して日本に来て、

しばらくして、

ご主人がやくざだったということを知ったのです。



夫は放蕩三昧をして、

悪いことばかりしていました。



彼女は耐え切れずに、主に叫びました。

そのときです。



ご主人のために祈ろうとした

そのときに、

主の御声が聞こえてきたのです。



「お前が悪い」と。



彼女は耳を疑いました。

しかし確かに、主が語られたのです。



彼女の目からは、涙があふれてきました。



夫に対する主の憐れみと愛が、

彼女の心にあふれてきました。

主に促されて彼女は

「自分の罪」を悔い改めたのです。



彼女の祈りは天に、

そして夫に届きました。



主は、彼女の祈りを聞かれました。



それどころか、

やくざから足を洗った夫とともに、

今では、主のために働いているのです。



これが真実な悔い改めの実です。

これが私たちの信じている聖書の神、真の愛の神がなされる

私たちの悔い改めへの実、応えなのです。

2016年12月8日木曜日

12月8日(木) 宣教開始ー悔い改めなさい②





もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、

神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、

すべての悪から私たちをきよめてくださいます。


ヨハネの手紙 第一 1章9節

まちがった悔い改め

自分の罪に対してあやふやなままされる悔い改め、

心を見られる主の前に

真実でない形だけの、あるいは口先だけの悔い改め、

それは退けられます。



それと、もう一つは、

それとは逆に、

心から自分が悪いと思って

主の前に悔い改めているのに、

そして主はもう完全に許して下さっているのに、

どうしても、その主の赦しを受け取ることができないで、

同じことを、

何度も、何度も、繰り返し、繰り返し

悔い改めている方がいらっしゃいます。



このような方は、

いつまでも、自分を責め苛んで、

罪悪感の中で、苦しみもがき続けてしまうのです。



こういうタイプの方は、

主イエス・キリストが

十字架でなしてくださった完全な赦しを、

信仰をもって、受け取って行かなければなりません。



自分の感覚や感情ではなく、

御言葉に対する信仰が必要なのです。



多くの母親が、

自分の子どものことで痛んでいます。



子どもに問題が起こると、

それが病気であれ、

心の問題であれ、

登校拒否であれ、

非行であれ、

こうなったのは自分が悪かったのだ、

と心の深いところでは、

ほとんどの母親は思っているようです。



そして自分を責め続けるのです。



時には何年にもわたって悔い改め続け、

これは悔い改めというよりも、

悔い悔い悔いと言った方がいいかもしれませんが、

自分を責め続けてしまうのです。



そして中には、病気になってしまう母親さえいます。



確かに、子どもに何か問題が起こったということは、

母親にも悔い改めねばならないことがあるのでしょう。



しかし、

主の前に心を注ぎだし

真実に悔い改めるならば、

ただ一度の真実な真剣な悔い改めで、

あなたの罪は赦され、

あなたが失敗したと思った、

その取り返しがつかないと思っていることさえ、

全能の神である主は、益としてくださるのです。



そうです。



あなたのお子さんにとっても、必ず益と、最善としてくださるのです。



それが私たちの主です。



不可能のない愛の神であられる主イエス・キリストを、信じてください。



あなたの感覚や感情に

サタンは訴えてきますが、

それに耳を貸してはならないのです。



私たちは、



神の御言葉に、

十字架の恵みに



目を留めるべきなのです。


2016年12月7日水曜日

12月7日(水) 宣教開始—悔い改めなさい①






しかし主はサムエルに仰せられた。

「彼の容貌や、背の高さを見てはならない。

 わたしは彼を退けている。

 人が見るようには見ないからだ。

 人はうわべを見るが、主は心を見る。」





    第1サムエル16章7節



真実な悔い改め



悔い改めと聞くと、

すぐに暗いイメージを抱く人が

多いような気がしますが、

あなたはどうでしょうか?



もしそうでないなら、

あなたは福音を、正しく理解されているのです。



なぜなら、悔い改めは恵みであり、

私たちを、十字架によって与えられた救いの喜びと平安の中に、

どんなときにも保ち続けてくれる祝福だからです。



でも多くの場合は、

そういうふうに正しく理解されてはいないのです。



残念ながら、

本来救いと喜びにいたるはずの悔い改めが、

責め立てられるような罪責感と自虐的な思いに

変えられてしまっています。



だから人は、本気で悔い改めようとしないのです。



クリスチャンになってからでさえも、

悔い改めの実を結び、

天の御国の豊かな祝福の中に生きている人は少ないのです。



多くの方々が、

悔い改めの実を見ずに、

今なお、

悪魔がもたらす地獄の苦しみの中におられるのです。



それは、

主に2つの誤った悔い改めの態度から来ていると思われます。



まず第一に、

罪に対して、

あやふやな態度のまま成される

いい加減な悔い改めは、

悔い改めがもたらす主の祝福を、

受けることができません。



「私が悪かったです」



という心からの真実な悔い改めは、

実に多くの祝福をもたらしますが、

見せかけだけの形だけの悔い改めは、

主に退けられてしまいます。



主は、心をご覧になるからです。



サウルは、主から

アマレクを打ち、すべてのものを聖絶するようにと命じられましたが、

聞き従うことができずに、

肥えた羊や小羊や牛の最も良いものを惜しみ、

つまらない値打ちのないものだけを聖絶しました。



預言者サムエルは、

このことを怒り、

サウルのところに行きましたが、

サウルはすぐには自分の不従順を認めようとせず

「私は主のことばを守りました」

と言います。



サムエルに

「私の耳にはいるあの羊と牛の声は何ですか」

と問い詰められたときでさえ、

「民が最も良いものを惜しんだのです。

 あなたの神、主にいけにえを捧げるためです」

と民の責任にして、

悔い改めずに言い訳しました。



サムエルが「やめなさい」と言って、

はっきりと

「主の御声に聞き従わず」

と言ったときでさえも

「私は主の御声に聞き従いました」

と言い張ったのです。



その後で、

やっとサウルは自分の罪を認めますが、

その時でさえ自分の面目のために、

サムエルに一緒に帰って礼拝してほしいと頼むのです。



彼の悔い改めは、本物ではありませんでした。



もしも彼が自分の不従順を心から認め、

真実に悔い改めていたならば、

主はサウルを退けはされなかったでしょう。



もしもサウルが、

心から悔い改めていたならば

ダビデの末からではなく、

サウルの末からイエス・キリストが

誕生していたのです。



サウルは悔い改めのない心のゆえに、

主から退けられてしまいました。



そして、主が与えようとされていた

大いなる祝福を失ったのです。


2016年12月4日日曜日

12月4日(日) 5つのバンと2匹の魚




わたしが五千人に五つのパンを裂いて上げたとき、

パン切れを取り集めて幾つのかごがいっぱいになりましたか。」

彼らは答えた。「七つです。」





マルコの福音書8章19節



主は今も生きておられる



5つのパンと2匹の魚を通して奇跡を行い、

男だけで5千人を養われた主イエスは、

今も生きておられます。



信仰が十分にあったわけではないアンデレが差し出した

少年のお弁当を用いられた主イエスは、

今も不十分な私たちの差し出すものを

喜んで用いて奇跡をなさってくださいます。



私たちは、今あるものを主に感謝し、

主が、私たちに与えてくださるものを惜しまずに、

人々に分け与えていきましょう。 主は、そのとき、

今も働いて大いなる業を、なしてくださいます。




2016年12月2日金曜日

12月3日(土) 5つのバンと2匹の魚⑥




人々はみな、食べて満腹した。

そして、パン切れを十二のかごにいっぱい取り集め、

魚の残りも取り集めた




マルコの福音書6章42・43節



十分に分け与える



イエスは弟子たちに、

人々が、ほしいだけ分けるように言われました。



それで、人々は十分に食べて満腹したのです。

その後で、余ったパン切れを集めると、

何とちょうど12のかごが、いっぱいになったのです。

配った弟子たちは12人でした。



イエスは

「こんなに大ぜいだから、少し控え目にして、  

みんなのことも考えて、少なめで我慢しなさい」

とは言われなかったのです。



お腹を空かせていた人々にほしいだけ、

こころゆくまで十分に与えられたのです。

これが、私たちの信じている主イエスの姿です。



弟子たちは自分たちが食べる前に、

まず人々に配ることをしなければなりませんでした。

配っても配っても、パンは減るどころか増えていきました。

でも、もし突然、途中で増えることが止まってしまったら、

もう彼らの食べる分は、なくなってしまうのです。



彼らが、そんな不安を持ったかどうかはわかりませんが、

最後のひとりが食べ終わったときに、

主は余ったパン切れを集めるように言われたのです。



そして、それは、ちょうど彼らと同じ12のかごいっぱいになりました。



主は完全なお方です。

主のなさることは、何と美しくすばらしいのでしょうか。



私たちにも、主イエスは、まず人々に分け与えるようにと言われます。

しかも人々が、ほしいだけ十分に。



でも、そんなことをしたら私の分がなくなってしまう。

そんなふうに、私たちは考えて恐れてしまうのです。

主イエスは、あなたの分をちゃんと用意しておられます。

しかも十分に。

私たちも、このときの弟子たちのように、

人々に分け与え、

そして、主のすばらしい奇跡のみ業を見せていただきましょう。


12月2日(金) 5つのパンと2匹の魚⑤




そこで、イエスはパンを取り、

感謝をささげてから、

すわっている人々に分けてやられた。

また、小さい魚も同じようにして、彼らにほしいだけ分けられた。




ヨハネの福音書6章11節



感謝



イエスは、

人々をすわらせながら、

5つのパンと2匹の魚を手に取って、

天を見上げて、

それらを祝福し感謝を捧げられたのです。



それから、パンを裂き、人々に配るようにと弟子たちに与えられました。

イエスは

「たった5つしかありません。  

父なる神さま、こんなに少ないのです。  

何とかしてください。増やしてください。お願いします」

とは言われなかったのです。



人の目には、たった5つしか見えませんが、

主にはそれで十分だったのです。



イエスは、5つのままで祝福し、感謝されたのです。  



私たちも、すでに与えられているものに、感謝する必要があります。

今あるものを、主イエスに感謝しましょう。

そのとき、 5つのパンが増え続けて、

5千人の人々が十分食べることができたように、

きっと、主イエスは、あなたにも、

今あるものから奇跡を始めてくださることでしょう。



私たちよりも、はるかに高い計画の中で、主は奇跡をなされるでしょう。

主イエスにとって足りないことなどないのです。



今のあなたを感謝してください。

今の状況を感謝してください。

他の人々と比較することも競争することも止めて、

主が、あなたに置かれているすべてを、そのまま感謝しましょう。

そこから奇跡が始まります。



あなたが感謝を始めるなら、

必ず主のすばらしさを、あなたは知るでしょう。

2016年12月1日木曜日

12/1(木) 今日のみことば 映像





12月1日(木) 5つのパンと2匹の魚④




イエスは言われた。

「人々をすわらせなさい。」

その場所には草が多かった。

そこで男たちはすわった。

その数はおよそ五千人であった。




ヨハネの福音書6章10節



信仰の備え



5つのパンと2匹の魚を見たとたん、

イエスは言われました。



「人々を座らせなさい。」



それで、人々は草の上に座りました。

これは、からだを横にすることです。

当時のユダヤでは、からだを横にして食事をしていたのです。

今そんな風にして食べると、行儀が悪いと言われますが、

それが当時の習慣だったのです。



つまり、イエスは、食事を食べるための準備をさせたのです。



イエスは奇跡を行う前に、

まだ、パンは5つのままで、魚も2匹のままのときに、

食事を食べる準備を、人々に命じられました。



私たちにも同じように、主イエスは語られます。

奇跡が起こってからではなく、

奇跡が起こる前に準備しなさいと言われるのです。



リバイバルが起こる前に、

リバイバルが必ず来るから、

その準備をしなさいと言われるのです。



このとき、
人々が言われた通り草の上にすわって食事をする準備をした時に、

十分食べることができたように、



私たちも始まって来ているリバイバルの働きに対して、

具体的な準備をしていくときに、

すばらしいリバイバルの働きに預かり、担うことができるのです。

2016年11月30日水曜日

11月30日(水) 5つのパンと2匹の魚③







「ここに少年が大麦のパンを五つと小さい魚を二匹  

持っています。しかし、こんなに大ぜいの人々では、  

それが何になりましょう。」




ヨハネの福音書6章9節



5つのパンと2匹の魚



そのとき、アンデレという弟子が、

少年の持っていたお弁当(?)をもって、

イエス・キリストのところに来て言いました。



「ここに少年のお弁当があります。  

大麦のパンが5つと小さい魚が2匹あります。  

でも、こんなに大ぜいの人々では、それが何になるでしょう」



どうもアンデレは、あまり期待していなかったようです。

ところが、この5つのパンと2匹の魚から、主は奇跡をなさるのです。

男だけで5千人の人々が満腹する奇跡が起こるのです。



アンデレは、5つのパンと2匹の魚を持ってきました。

彼のことばを聞いていると、決して信仰があったとは言えません。

でも、イエス・キリストのところに持ってきたのです。



そこが、ピリポとの決定的な違いでした。



あなたが、主イエスに語られたとき、

それが、たとえ無理と思っても、不可能と思っても、

すぐに、あきらめないでください。



今、あなたにあるものを、主イエスの前に差し出してください。

たとえ、それが、あなたの目には何の役にも立たないと思えても、

わずかなものでしかないと思ったとしても、

それを、主イエスの前に差し出してください。



主イエスは、そこから奇跡を始められるのです。

かつて中国の地下教会に、

宣教師として遣わされた新川宣教師という方がいますが、

彼は、かつて勉強が大嫌いで、

漫画さえ、あのカッコの中の字を読むのが嫌で読まなかった人でした。



ところが、イエス・キリストを信じて救われた後、

彼は韓国に行ったときに、宣教師としての召しを受けるのです。

そして彼が祈ると、

何と漢字を読めなかった彼に、漢字だけの世界に行きなさい、

と言われたのです。

新川宣教師は従いました。

彼は、漢字が嫌いで苦手な自分を、主の前に差し出して祈ったのです。

福音宣教のために、

「ダニエルに与えられた知恵を私にも与えてください。」と。



主イエスは、奇跡をなさいました。



いま彼は、北京語、広東語、台湾語、

そして英語まで流暢に書き話しながら、

福音を宣べ伝えています。



主は、今も生きておられます。

あなたにも、主は奇跡をなしてくださいます。

主イエスに従って、今あるものを、そのままで主に捧げましょう。

2016年11月29日火曜日

11/29(火) 今日のみことば 映像











しかし、
イエスは言われた。
「彼らが
出かけて行く必要は
ありません。
あなたがたで、
あの人たちに
何か食べる物を
上げなさい。」



マタイの福音書14章16節


弟子たちの考え


イエスのまわりには、
いつも多くの人が
群れをなして集まっていました。
それは、
イエス・キリストが
病気で苦しんでいる人たちを、
その病から解放して、
いやされていたからです。
このような
奇跡やしるしを見た人たちが
イエスのまわりを取り巻いて
数千人、
いやそれどころか
数万人という数に
なっていました。


イエスは山に登り、
弟子たちとともに、
そこに座られました。


夕方になって、
もう時刻が遅くなったとき、
弟子たちは、
人々のことが心配になって、
イエスに言いました。


「ここはへんぴで、
寂しいところですし、
もう時刻も遅くなりました。
みんなを解散させて、
近くの部落や村に行って、
めいめいで
何か食べるものを
買うようにさせてください」


弟子たちの言うことは、
もっともなことでした。
みんなは、
お腹をすかせていましたし、
これ以上遅くなると、
真っ暗になってしまって
大変なことになってしまいます。


ところが、イエスは、
とんでもないことを
言われたのです。


「彼らが出かけて行く必要は
ありません。
あなたがたで、
あの人たちに何か
食べるものを上げなさい。」


弟子たちは、
びっくりしてしまいました。
成人の男だけでも
5千人はいるのです。
女の人や子どもたちも
加えると
数万人はいるでしょう。
いったいどうしろと、
イエスは言うのでしょうか。


そこで、
ピリポをはじめとする
弟子たちは、
イエスに言いました。


「めいめいが
少しずつ食べるにしても
二百デナリのパンでも
足りないくらいです。
それを私たちが
出かけて行って買ってきて、
あの人たちに
食べさせるということですか」
ピリポたちは、
すぐに計算をしたのです。
目の前にいる人々を見て、
自分たちの出来うる
可能性を考えてみたのです。
でも、
それはとうてい
無理なことでした。
不可能なことだったのです。


皆さん、時々神様は、
私たちには、
とても不可能と
思えることをしなさい、
と言われることがあります。
絶対にそんなことは
無理だ、出来っこない、
ということを
言われることがあるのです。
その時は、
ピリポのように
計算することは止めて、
語られた神さまに
信頼しましょう。
主イエスが
しなさいと語られるなら、
きっと、
主イエスが
方法を持って
おられるからです。
このときも、
イエス・キリストは、
これから
自分がしようとしている
奇跡のことを
知っておられました。

11月29日(火)  5つのバンと2匹の魚②




しかし、イエスは言われた。

「彼らが出かけて行く必要はありません。

あなたがたで、あの人たちに何か食べる物を上げなさい。」




マタイの福音書14章16節



弟子たちの考え



イエスのまわりには、いつも多くの人が群れをなして集まっていました。

それは、イエス・キリストが病気で苦しんでいる人たちを、

その病から解放して、いやされていたからです。

このような奇跡やしるしを見た人たちが

イエスのまわりを取り巻いて数千人、

いやそれどころか数万人という数になっていました。



イエスは山に登り、弟子たちとともに、そこに座られました。

夕方になって、もう時刻が遅くなったとき、

弟子たちは、人々のことが心配になって、

イエスに言いました。


「ここはへんぴで、寂しいところですし、もう時刻も遅くなりました。  

みんなを解散させて、近くの部落や村に行って、  

めいめいで何か食べるものを買うようにさせてください」


弟子たちの言うことは、もっともなことでした。

みんなは、お腹をすかせていましたし、

これ以上遅くなると、真っ暗になってしまって大変なことになってしまいます。



ところが、イエスは、とんでもないことを言われたのです。


「彼らが出かけて行く必要はありません。  

あなたがたで、あの人たちに何か食べるものを上げなさい。」


弟子たちは、びっくりしてしまいました。

成人の男だけでも5千人はいるのです。

女の人や子どもたちも加えると数万人はいるでしょう。

いったいどうしろと、イエスは言うのでしょうか。



そこで、ピリポをはじめとする弟子たちは、

イエスに言いました。


「めいめいが少しずつ食べるにしても  

二百デナリのパンでも足りないくらいです。  

それを私たちが出かけて行って買ってきて、  

あの人たちに食べさせるということですか」


ピリポたちは、すぐに計算をしたのです。

目の前にいる人々を見て、

自分たちの出来うる可能性を考えてみたのです。

でも、それはとうてい無理なことでした。

不可能なことだったのです。



皆さん、時々神様は、

私たちには、とても不可能と思えることをしなさい、

と言われることがあります。

絶対にそんなことは無理だ、出来っこない、

ということを言われることがあるのです。



その時は、ピリポのように計算することは止めて、

語られた神さまに信頼しましょう。

主イエスがしなさいと語られるなら、

きっと、主イエスが方法を持っておられるからです。

このときも、イエス・キリストは、

これから自分がしようとしている奇跡のことを知っておられました。 - [ ]

2016年11月28日月曜日

11/28 (月) 今日のみことば




音声でお聞きください




11月28日(月) 5つのパンと2匹の魚①




食べた者は、女と子どもを除いて、男五千人ほどであった。



マタイの福音書14章21節



イエス・キリストの生涯について書かれているものを「福音書」と言います。

聖書の中には、この「福音書」が4つあります。

「福音書」を書いた人の名前をとって、

マタイの福音書、マルコの福音書、ルカの福音書、ヨハネの福音書

と呼ばれています。

それぞれ違った視点から

イエス・キリストの生涯について書かれているのですが、

この4つの福音書のすべてに、

つまり、4つとも全部に出てくるお話というのは、そんなに多くはありません。

イエス・キリストの誕生のことでさえ、

マタイとルカにしか詳しく出てこないのです。



ところが、

これから書く「5つのパンと2匹の魚」というお話は、

4つの福音書のすべてに書かれているのです。

それほど弟子たちにとっては、

忘れることの出来ない特別な出来事だったのでしょう。



そして、そこには現代の私たちにも多くの語りかけがあります。 

きっと主は、

この五千人の給食の話を通しして、

あなたにも語ってくださいます。



主に期待しながら、

ガリラヤ湖畔でのイエス・キリストと弟子たちの会話に



耳を傾けていきましょう。

2016年11月23日水曜日

11月24日(木) ピラトとイエス⑤




だれも、わたしからいのちを取った者はいません。

わたしが自分からいのちを捨てるのです。

わたしには、それを捨てる権威があり、

それをもう一度得る権威があります。

わたしはこの命令をわたしの父から受けたのです。




ヨハネの福音書10章18節



いのちを捨てる権威



イエス・キリストは、祭司長たちの妬みの前に敗北されたのでしょうか。

ピラトの努力もむなしく、ピラトの総督としての権威は、

長老や律法学者、祭司長たちの妬みに用いられてしまい、

イエス・キリストは、彼らの思いのままにされてしまったのでしょうか。



もちろん、そうではありませんでした。

イエス・キリストは、自ら十字架の死の道を選ばれたのでした。



ピラトの弱さも、

祭司長や長老たちの妬みも、

主はすべて知っておられました。



そのうえで、

神のときが来たときに、

主イエスは、十字架の死の道を、まっすぐに選ばれ進んで行かれたのでした。



イエスは言われています。



「だれも、私からいのちを取ったものはいません。  

わたしが自分からいのちを捨てるのです。  

わたしには、それを捨てる権威があり、それをもう一度得る権威があります。  

わたしはこの命令をわたしの父から受けたのです。」  



権威は、ピラトにではなく、イエス・キリストの上にありました。

イエス・キリストは、自ら進んで父なる神の命令に従い、

自分から十字架の死の道を選び、

自分からいのちを捨てる道を選んだのです。



それは、私たちへの愛のゆえでした。

この道以外には、

罪人であるあなたと私の罪をあがない救う道が

他にはなかったからでした。



イエス・キリストのうちにあふれる私たちへの愛が、

あの十字架に導いたのです。

イエスの父なる神への従順が、私たちにいのちをもたらしたのです。



ピラトの弱さも、

長老たちをはじめとする人々の妬みも、

すべては、主の手の中にあったのです。



その上に、主の計画と御手がありました。



私たちも、この主イエスに従っていくとき、

人々の妬みやピラトのような弱さのゆえに、

十字架を負わされるときがあるかもしれません。



いや必ずあるでしょう。



しかしそのとき、知ってほしいのです。

その人々の妬みも、

自分の立場を守ることしか頭にない人々の弱さも、

すべては、主の御手の中にあることを。



ですから、イエス・キリストがなされたように、

私たちも権威をもって、十字架の死の道を選んでいきましょう。

主イエスが、その中で、栄光を必ず現わしてくださいます。

11月23日(水) ピラトとイエス④




彼らは激しく叫んだ。「除け。除け。十字架につけろ。」ピラトは彼らに言った。

「あなたがたの王を私が十字架につけるのですか。」

祭司長たちは答えた。

「カイザルのほかには、私たちに王はありません。」

そこでピラトは、そのとき、

イエスを、十字架につけるために彼らに引き渡した。




ヨハネの福音書19章15・16節



人を恐れたピラト



ピラトは、

イエスが無実であり、

祭司長や長老が、

妬みから十字架につけるように

群衆を扇動していることもわかっていました。



実際、イエスと対面し、

いくつかの質問をして、その答えを聞きながら、

ピラトは、この方は全く罪など犯していないことに気づいていたのです。



ですから、彼なりに何とかして、イエスを助けよう、釈放しようとしたのです。

せめて死刑にはならないようにと思いました。

しかし結局、彼は最後には、

イエスを死刑にするために、

しかも、十字架という最も残酷な死刑にするために、

彼らの手に渡してしまうことになるのです。



なぜ、ピラトはイエスが無実だとわかっていながら、

イエスを助けることが出来なかったのでしょうか。

彼には、イエスを十字架につける権威も、釈放する権威もあったのです。

実際、ピラトはイエス様を釈放しようと努力もしました。

しかし、結局だめだったのです。



それはピラトが、神よりも人を恐れ、

自分の立場を守ることに、汲々としていたからでした。

群衆は、こう言ったのです。



「もしこの人を釈放するなら、あなたはカイザルの味方ではありません。  

自分を王とする者はすべて、カイザルにそむくのです。」



カイザルにそむく。

当時のローマ帝国において、これが一番大きな問題でした。

また、カイザルから任されている領地で

暴動や謀反が起こることは、一番厄介でまずい問題でした。



祭司長たちは、群衆が扇動しながら、ピラトの一番痛いところを突いたのです。

それでピラトは自分の立場を守るために裁判の席に着き、

キリストを連れ出して、ユダヤ人たちに、こう言いました。



「さあ、あなたがたの王です。」



すると彼らは、イエスを「十字架につけろ。」と激しく叫びました。



ピラトは彼らに言いました。



「あなたがたの王を私が十字架につけるのですか。」と。



しかし祭司長たちはその時、こう答えたのです。



「カイザルのほかには私たちには王はありません。」



ピラトは、もう答えられませんでした。

彼は自分を守るため、自分の立場を失いたくないために、

永遠に価値あるものを失い、

イエス・キリストを十字架の死に渡す者となってしまったのです。

彼には、総督としての権威がありました。

しかし、それは祭司長たちの思いのままに、用いられてしまったのです。

彼らの妬みの道具として使われてしまったのです。



ピラトが主よりも人を恐れ、

自分のことにとらわれ、

自分の立場を守るために生きたとき、

彼は、イエスがあたえようとしていた命も祝福も失い、

逆にキリストを十字架の死に渡すものとなったのです。

2016年11月22日火曜日

11月22日(火) ピラトとイエス③




だが、ピラトは彼らに、

「あの人がどんな悪いことをしたというのか」と言った。しかし、彼らはますます激しく

「十字架につけろ」と叫んだ。

それで、ピラトは群衆のきげんをとろうと思い、

バラバを釈放した。

そして、イエスをむち打って後、

十字架につけるようにと引き渡した。




マルコの福音書15章14・15節



キリストではなくバラバ



夜が明けるとすぐに、

祭司長をはじめ、長老、律法学者たちは全議会と、

イエスを死刑にするために協議をこらしました。

それから、イエスを縛って連れ出し、総督ピラトに引き渡したのです。



イエスがピラトの前に立たれると



「あなたは、ユダヤ人の王ですか。」と尋ねられました。



イエスは「そのとおりです。」と言われました。



しかし、祭司長や長老たちから厳しい訴えがなされたときには、

何もお答えにならなかったのです。

ピラトが思わずも



「あんなにいろいろとあなたに不利な証言をしているのに、  

聞こえないのですか。」と言っても、



イエスは、どんな訴えに対しても一言もお答えになりませんでした。

それには総督ピラトも非常に驚きました。



ピラトはイエスが、

祭司長や長老たちの妬みから引き渡されたことに気づいていました。

また、イエスが死刑に当たるようなことは

何もしていないことがわかっていました。

それで何とかして、彼はイエスを助けようとしたのです。



ピラトは、この過ぎ越しの祭りのときに、

人々の願う囚人を、ひとりだけ赦免にしてやるのが例となっていました。

それで人々が集まったときに、



「あなたがたは、だれを釈放してほしいのか。  

バラバか。それともキリストと呼ばれているイエスか」と聞きました。



このバラバは、

暴動のとき人殺しをした暴徒たちといっしょに

牢に入っていました。



祭司長や長老たちは、

バラバの方の釈放を願うよう群衆を説きつけたのです。

そして、イエスを死刑にするようにも群衆を説きつけました。



総督ピラトが



「あなたがたは、ふたりのうちどちらを釈放してほしいのか。」と聞いたとき、



彼らは「バラバだ。」と答えたのです。



ピラトは続けて聞きました。



「では、キリストと言われているイエスを私はどのようにしようか。



「十字架につけろ。十字架につけろ。」と



彼らはいっせいに言いました。

ピラトはキリストが無実であることがわかっていたので、

「あの人がどんな悪いことをしたというのか。」と言いましたが、



彼らは、ますます激しく「十字架につけろ。」と叫び続けたのです。



ピラトは、もう自分では手の下しようがないのを見て、

群衆の目の前で水を取り寄せ、手を洗ってこう言いました。



「この人の血について、私には責任がない。自分たちで始末するのがよい。」



すると群衆は答えて言いました。



「その人の血は、私たちや子どもたちの上にかかってもいい。」



その言葉を聞いてから、

ピラトは彼らのためにバラバを釈放し、

イエスを鞭打ってから、十字架につけるために引き渡したのです。

2016年11月21日月曜日

11月21日(月) ビラトとイエス②




しかし、イエスは黙ったままで、何もお答えにならなかった。大祭司は、さらにイエスに尋ねて言った。

「あなたは、ほむべき方の子、キリストですか。」

そこでイエスは言われた。「わたしは、それです。

人の子が、力ある方の右の座に着き、

天の雲に乗って来るのを、あなたがたは見るはずです。」




マルコの福音書14章61・62節



不法な裁判



大祭司カヤパのところには、

律法学者や長老たちが集まっていました。

祭司長たちと全議会とは、

イエスを死刑にするために、イエスを訴える偽証を求めていました。

偽証する者たちは、たくさん出てきたのですが、

彼らの証言は一致せず、証拠はつかめなかったのです。

そして、最後にふたりの者が進み出て



「この人は、『わたしは神の神殿を三日のうちに建て直せる。』と言いました。」



と言ったのです。

すると、大祭司が思わずも立ち上がって、イエスに向かってこう言いました。



「何も答えないのですか。  

この人たちが、あなたに不利な証言をしていますが、  

これはどうなのですか。」



しかし、イエスは黙っておられました。

大祭司は、さらにイエスに尋ねて言いました。



「あなたは、ほむべき方の子、キリストですか。」



そこで、イエスは初めて口を開いて答えられたのです。



「あなたの言うとおり、わたしは、それです。

 今からのち、人の子が力ある方の右の座に着き、

 天の雲に乗って来るのを、あなたがたは見ることになります。」



すると、大祭司は自分の衣を引き裂いて言いました。



「神への冒涜だ。これでもまだ、証人が必要でしょうか。

 あなたがたは、今、神をけがすことばを聞いたのです。

 どう考えますか。」



彼らは「彼は死刑に当たる。」と答えて、

全員でイエスには死刑に当たる罪があると決めたのです。

そうして、彼らはイエスの顔に唾を吐きかけ、こぶしで殴りつけ、

また、役人たちはイエスを平手で打って



「言い当ててみろ。キリスト。あなたを打ったのはだれか。」



などと言ったりして、イエスを侮蔑したのです。

場所:川口町,長崎市,日本

2016年11月20日日曜日

11月20日(日) ピラトとイエス




そこで、一隊の兵士と千人隊長、

それにユダヤ人から送られた役人たちは、

イエスを捕らえて縛り、

まずアンナスのところに連れて行った。

彼がその年の 大祭司カヤパのしゅうとだったからである。




ヨハネの福音書18章12・13節



イエス、捕らえられる!



ゲツセマネで祈り終えられると、

イエスは弟子のひとりのユダに裏切られ、

パリサイ人たちや祭司長、律法学者たちから差し向けられた一隊の兵士たちと

剣や棒を手にした多くの群衆に捕えられてしまいます。



イエスは捕えられてしまいます。

イエスは捕えられ縛られて、

まずアンナスのところに連れて行かれます。

アンナスは、

その年の大祭司カヤパのしゅうとであり、

隠然たる勢力を持っていたからです。



彼はイエスに、弟子たちのこと、

また、教え子のことについて尋問しました。



すると、イエスは毅然とした態度で答えられました。



「わたしは世に向かって公然と話しました。  

ユダヤ人たちが集まってくるところで、いつも教えたのです。  

隠れて話したことはありません。  

なぜ、あなたはわたしに尋ねるのか。  

わたしが人々に何を話したかは、  

わたしから聞いた人たちに尋ねなさい。  

彼らならわたしが話した事がらを知っています。」



この答えを聞いた役人の一人が腹を立てて、

平手でイエス様を打ちました。

アンナスは、イエスを縛ったままで、大祭司カヤパのところに送りました。

2016年11月19日土曜日

11月19日(土) さまざまな裏切り④




ある青年が、

素はだに亜麻布を一枚まとったままで、

イエスについて行ったところ、

人々は彼を捕らえようとした。




マルコの福音書14章51節



はだかで逃げた青年


イエス・キリストが捕えられたとき、

みんなは、

イエス・キリストを見捨てて、

逃げていきます。



ところが一人だけ、

ある青年が、

素はだに亜麻布を一枚まとったままで、

イエス・キリストについて行きました。



どうしてかは、本当のところは、わかりません。

けれども、とにかくイエス・キリストのあとを、

ついて行かずにはおられなかったのでしょう。

イエス・キリストのことが気になって、

そっと、イエス・キリストのあとから、ついて行ったのでしょう。



ところが、せっかく彼がそっとイエスのあとからついて行ったのに、

人々は目ざとく彼を見つけて、

彼がイエスの弟子たちだとわかると捕えられようとしたのです。



その途端、彼は亜麻布を脱ぎ捨てて、はだかで逃げたのです。



彼は、もう必死で逃げました。

こわかったのでしょう。

捕まりたくなかったのです。



亜麻布は、とても上質な布で、高価なものでした。

しかし、それを脱ぎ捨ててまでも

彼はとにかく逃げました。

はだかになって逃げました。

恥ずかしいという思いよりも、

捕えられる恐怖のほうが大きかったのです。



彼は、もうイエス・キリストのことは、どこかに飛んでいたのです。

いえ、心にはありました。

でも自分が捕まることのほうが、

イエス・キリストのことよりも大きな問題だったのです。

もうこれ以上は、イエス・キリストには、ついて行けなかったのです。



この青年が誰だったのかは、はっきりとは分かっていません。

ただ、このことが書かれているマルコの福音書の著者である

マルコ・ヨハネではないかと言われています。



もしそうだとしたら、

マルコは、この記事をどんな思いで書いたのでしょうか。

福音書の中で、マルコだけが、このことを記しています。

マルコにとって、これは忘れられないことだったのでしょう。

彼にとって、このことは、

自分はイエス・キリストを裏切ってしまったという

痛い思い出だったはずです。



しかし同時に、

彼はその中で、

十字架を通して注がれる神の赦しと愛の深さ、広さを知ったのでしょう。

だからこそ、彼はこのことを、わざわざ書き記したのです。

もしかしたら、

これを書きながら、彼は泣いていたかもしれません。

自分の罪と弱さを思い出しながら、それにもまさる愛を思い起こして。



私たちも裏切った弟子たちのように、

イエス・キリストに選ばれ、召され全てを捨ててついて行きながら、

失敗しやすいものです。



しかし、ペテロがその40日後のペンテコステの日に、

説教者として用いられ、

三千人の人が救われたように、

主は憐れみをもって、

悔い改め、主を待ち望む者に

力を与えてくださることを覚えていましょう。



そして、ユダの道ではなく、ペテロの道を行きましょう。



そのとき、マルコ・ヨハネのように、

主は憐れみをもって用いてくださるのです。

2016年11月18日金曜日

11月18日(金) さまざまな裏切り③




しかし、イエスは言われた。

「ペテロ、あなたに言いますが、きょう鶏が鳴くまでに、  

あなたは三度、わたしを知らないといいます。」




ルカの福音書22章34節



従って行けなかったペテロ



イエス・キリストは十字架にかかる前の晩、

最後の晩餐の席について、弟子たちと過越の食事をされました。

このとき初めての聖餐式が、

イエス・キリストによって弟子たちとともに行われたのです。



そして賛美の歌を歌ってから、

みんなでオリーブ山に出かけて行かれました。



イエスは、そこで弟子たちに言われました。



「あなたがたはみな、つまずきます。

 『わたしが羊飼いを打つ。すると羊は散り散りになる。』  

と書いてありますから。」



イエスは、さらにペテロには、こうも言われました。



「シモン、シモン。見なさい。  

サタンが、あなたがた麦のふるいにかけることを願って聞き届けられました。  

しかし、わたしは、あなたの信仰がなくならないように、  

あなたのために祈りました。  

だからあなたは、立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」  



イエス・キリストは

ペテロに、シモンと生まれつきの名前を呼んで、

あなた方はサタンにふるわれてしまう。

つまり信仰の破船に会い、つまずいてしまう、と言われたのです。

ペテロ、すなわちシモンは黙っていられません。

思わず言いました。



「たとい全部の者がつまずいても、私はつまずきません。  

主よ。ごいっしょなら、牢であろうと、死であろうと、  

覚悟はできております。」



しかし、イエスは言われたのです。



「ペテロ。あなたに言いますが、  

きょう、今夜、鶏が二度鳴く前に、  

あなたは三度、わたしを知らないといいます。」



このとき、ペテロは本気でした。

心のそこからイエス・キリストを愛していたのでした。

イエス・キリストを知らないなどということを考えることは、

出来なかったのです。



しかし、ペテロは、主イエスが言われたとおり、

イエス・キリストを知らないと、鶏が二度鳴く前に言ったのでした。

どうしてでしょう。

こんなに、主イエスを愛していたのに。

ここまで、全てを捨てて従ってきたのに。



なぜ一番大切なときに、ペテロはついていけなかったのでしょう。



それはペテロが、あのゲツセマネで眠ってしまったからした。

一時間でも祈ることができなかったからでした。



私たちは、

祈らなければ、

主に従ってはいけないのです。



どんなに愛していても、

祈りがなければ、

その愛は力がないのです。



サタンにふるわれるとき、

私たち人間のどんな熱心も、熱意も、固い固い決意と意思も、

あっけなく崩れていくのです。



真実な愛は、

私たちを祈りへと導きます。

祈るとき、

私たちの愛は

神の力によって、 本物になっていくのです。



どんな状況の中でも、

どんな困難の中でも、

主を愛して従っていく力を与えてくれるのです。

2016年11月17日木曜日

11月17日(木) さまざまな裏切り②




さて、十二弟子のひとりで、

イスカリオテと呼ばれるユダに、サタンが入った。

ユダは出かけて行って、祭司長たちや宮の守衛長たちと、どのようにして

イエスを彼らに引き渡そうかと相談した。

彼らは喜んでユダに金をやる約束をした。




ルカの福音書22章3・4・5節



サタンがはいったユダ



祭司長や律法学者たちは、

イエス・キリストが権威を持って語り、

多くの人に慕われ、

神の力強い栄光を現わしているのを見て、

妬ましく思い、憎んでいました。



そして、殺したいとさえ願っていたのです。

彼らは、イエス・キリストを殺すための良い方法を考えていました。



ちょうどそのとき、

十二弟子のユダに、サタンがはいったのです。

聖書は、はっきりと書いています。

ユダに、サタンがはいったと。



サタンがはいったとき、

ユダはすぐに出かけて行って、

祭司長たちや宮の守衛長たちと、

どのようにして、イエスを彼らに引き渡そうかと相談したのです。



彼らは喜んで、ユダに金をやる約束をしました。



ユダは、たったの銀貨30枚で

イエス・キリストを売り、引き渡してしまったのです。

サタンがはいってしまったからでしょうか・・・


イエス・キリストが、

ゲツセマネで祈り終えられたとき、

ユダは、剣や棒を手にした大ぜいの群衆といっしょに

イエス・キリストを捕えるために近づいてきたのです。

この群衆は、祭司長、民の長老たちが差し向けたものでした。



ユダはイエス・キリストに近づき、



「先生。お元気で。」



と言って、

イエス・キリストに口づけしようとしました。

イエス・キリストは言われました。



「ユダ。口づけで、人の子を裏切ろうとするのか。」



ユダは、群衆と合図を決めていたのです。


「私が口づけをするのが、その人だ。その人を捕まえるのだ。」と。



それで、ユダはイエスに口づけをしたのです。

そのとき、イエスは彼に言われました。



「友よ。何のために来たのですか。」



そして、イエス・キリストは、

祭司長、長老たちの差し向けた群衆の手によって、

捕えられたのです。



どうして、ユダは、

イエス・キリストを、彼らの手に引き渡したのでしょう。

しかも、たった30枚の銀貨で、

あのイエス・キリストを売り渡してしまったのでしょう。

それは、彼にサタンがはいったからです。



では、どうして、ユダにサタンが入ったのでしょう。

他の誰でもなく、 なぜ、ユダに、サタンが、はいったのでしょう。



サタンは

人の中に無理やりにはいり、

人の心を占領することは、決して出来ません。

人が心を開き、

罪を持ち続けるとき、

サタンは自分の場を、その人の中に作り、入り込んでくるのです。



ユダは、イエス・キリストに信頼されていました。

とても信頼されていました。

だから、弟子たちの会計係を任せられていたのです。



ところが、

ユダは、その信頼を裏切って、

弟子たちから集めた会計のお金を、使い込んでしまっていたのです。



もしかしたら、

悪気があったのではなく、

丼勘定でやっていたら、そうなったのかもしれません。



でも、彼には悔い改めるチャンスがありました。



十字架にイエス・キリストがかかる前、

ベタニヤで、

マリヤが、イエス・キリストの足に高価なナルドの香油を塗ったとき、

イエス・キリストは、はっきりとマリヤをほめられたのです。



このとき、ユダは目を覚ますべきでした。

悔い改めて、

イエス・キリストに全てを告白して、

罪から離れるべき時だったのです。



しかし、ユダは悔い改めませんでした。

そして、

サタンがユダに、はいってしまったのです。



サタンは滅ぼすものです。



イエス・キリストを売ったあとに

ユダは、イエスが罪に定められたのを知って後悔し、

銀貨30枚を祭司長たちに返して



「私は罪を犯した。罪のない人の血を売ったりして。」



と言ったのですが、



彼らはとりあわず



「私たちの知ったことか。自分で始末することだ。」



と言われたのです。



ユダは銀貨を神殿に投げ込んで、

立ち去り、外に出て行って、

首をつって死んでしまったのです。



ユダが、もうしばらく待っていれば、

イエス・キリストの十字架の復活を

他の弟子たちとともに体験できたでしょう。

ユダがこのとき、

悔い改めて、

主の前に立ち返っていれば、

主は赦されたでしょう。



彼は後悔しましたが、

悔い改めなかったのです。



そして、

サタンは、ユダを使ったあと、

ユダを捨てて、

ユダを死に追い込んだのです。

2016年11月16日水曜日

11月16日(水) さまざまな裏切り①




しかし、すべてこうなったのは、

預言者たちの書が実現するためです。」

そのとき、弟子たちはみな、

イエスを見捨てて、逃げてしまった。



マタイの福音書26章56節



イエス・キリストは、

どうして、十字架にかからなければならなかったのでしょう。



それは、私の罪を贖うため、

そして、あなたの罪を贖うためでした。



確かにそうです。



しかし、

実際にあのとき、

イエス・キリストを十字架につけたのは、

ユダヤ人の長老、祭司長、律法学者たちだったのです。



彼らのイエス・キリストへの妬みが、

十字架にまで、

イエス・キリストを追いつめたのです。



そのとき、弟子たちはどうしていたのでしょうか。

3年半の間、

イエス・キリストが、

手塩にかけて育てられた弟子たち。

主に選ばれ、

主に呼び出されて、

家族を横におき、

仕事を捨てて、

イエス・キリストに、

すべてを捨てて従いて来た弟子たち。



ところが、

この一番大事なときに、

弟子たちは、

イエス・キリストを見捨てて、

逃げ出し、裏切ったのでした。



十字架のイエス・キリストのことを書く前に、

今回は、

この弟子たちの様々な裏切りについて

書きたいと思います。



決して弟子たちを責めるためではなく、

彼らへの主の憐れみと、

私たちへの語りかけを聞くために。


11/16( 水) 今日のみことば 映像



音声でお聞きください



2016年11月14日月曜日

11月14日(月) エルサレム入城⑤







わたしについて来なさい。



マルコの福音書1章17節



あなたも主は呼んでおられる



十字架に向かうため、

王の王としてエルサレムに来られたイエス・キリスト、

人としての生涯において

最も大きなクライマックスを迎えようとされていたイエス・キリスト、

旧約で約束され、

語られていたとおりに人々の賛美と歓喜で出迎えられた主イエス・キリスト、

そのとき、主イエスは『ろばの子』を選ばれ、乗られたのです。



主イエスは、この終りのときに、

再びエルサレムに、

今度は、十字架にかかられるためではなく、

まさに、王の王となるために帰って来られます。



そのとき、

主イエスは、

この『ろばの子』のように、

連れて来られるままに従う者を捜し求めておられるのです。



主は、あなたにも声を掛けられます。



確かに、主は、あなたにも語っておられます。



「器が足りない。  

あなたもわたしを乗せて、  

わたしの命ずるままに、  

この終りの時代を生きてくれないか。」と。



主イエス・キリストのあなたへの呼びかけに応答しましょう。



「わたしは『ろばの子』のように、力も知恵もありません。  

何の役にも立てません。  

しかし、主イエス・キリストが命じられ、言われるままに、  

主イエス・キリストを、お乗せして  

主イエス・キリストが命じられ、言われるままに行きます。」と。


2016年11月13日日曜日

11月13日(日) エルサレム入城④




「シオンの娘に伝えなさい。

 『見よ。あなたの王があなたのところに来られる。   

柔和で、ろばの背に乗って、   

それも、荷物を運ぶろばの子に乗って。』」




マタイの福音書21章5節



祝福を受けるろばの子



人々が、しゅろの木の枝をふり、大声で叫んだのは、

もちろん、主に向かってでした。

彼らは、主に向かって叫んでいたのです。



しかし、

その人々の賛美と歓喜に満ちた声を

主とともに聞いたのが、

実は、この『ろばの子』でした。



この『ろばの子』は、

ただキリストをお乗せしただけでした。

言われるままに連れて来られ、

そして、イエス・キリストをお乗せしたとき、

何とイエス・キリストとともに、

この『ろばの子』も賛美と祝福を受けたのです。



今まで、

この『ろばの子』は、上着を敷いてもらって、

その上を歩いたことなど、ありませんでした。



もし、このとき、

イエス・キリストを、

お乗せするために連れてこられなかったなら、

一生、この『ろばの子』は、

上着を敷いてもらって、

その上を歩くことなど、きっとなかったことでしょう。



でも今、この『ろばの子』は、

人々が敷いた上着の上を歩きながら、

イエス・キリストに捧げられる賛美の声を、

もっとも主イエスのそばで、

まるで自分に向かって言われているかのように聞くことができたのです。



私は思うのです。

きっと、この『ろばの子』は嬉しかっただろうと。



イエス・キリストを乗せて、

本当に良かったと、

心から思ったと思うのです。



この日は、

この『ろばの子』にとって

生涯、忘れることの出来ない

すばらしい祝福された日になったに違いありません。



あなたにも、

主は、この『ろばの子』が受けた祝福を与えてくださいます。



あなたが、

主の招きにただ従い、

応答するだけで、

主が、あなたに乗って働き、

あなたに、すばらしい恵みと祝福を体験させてくださるのです。

2016年11月12日土曜日

11月12日(土) エルサレム入城③




イエスが進んで行かれると、

人々は道に自分たちの上着を敷いた。

イエスがすでにオリーブ山のふもとに近づかれたとき、弟子たちの群れはみな、

自分たちの見たすべての力あるわざのことで、

喜んで大声に神を賛美し始め、こう言った。  

「祝福あれ。   

主の御名によって来られる王に。   

天には平和。   

栄光は、いと高き所に。」



ルカの福音書19章36・37・38節



約束の成就



彼らが、

この『ろばの子』に自分たちの上着を掛けると、

イエスは、それに乗られました。



こうして、

イエスが『ろばの子』に乗って進んで行かれると、

人々は道に自分たちの上着を敷き、

また、他の人々は、木の枝を切って来て、道に敷きました。



『ろばの子』に乗ったイエス・キリストが、

オーリブ山のふもとに近づかれ、

エルサレムに向かって進んで行かれると、

大ぜいの人の群れは、しゅろの木の枝を取って、出迎えのために出てきました。

そして喜んで、大声に神を賛美し始め、こう叫びました。

「ホサナ。祝福あれ。  

主の御名によって来られる王に。  

イスラエルの王に。  

天には平和。  

栄光は、いと高き所に。」



このとき、

群衆の中にいたパリサイ人のある者たちが、

イエスに向かって言いました。



「先生。お弟子たちをしかってください。」



そのとき、主は答えて、こう言われたのです。



「わたしは、あなたがたにこう言おう。  

もしこの人たちが黙れば、石が叫びます。」



これは旧約で預言者たちを通して語られていたことの成就だったのです。

主は、かつて、こう語られました。



「恐れるな。シオンの娘。  

見よ。あなたの王が来られる。ろばの子に乗って」



これは、主イエスの時だったのです。

主イエスが王の王として、

エルサレムに入場されるべき時だったのです。



ついに、その時が満ちたのでした。



そのとき、人々はしゅろの枝をふり、大声で叫びました。

こうして、イエス・キリストは、エルサレムに着かれたのです。


2016年11月11日金曜日

11月11日(金) エルサレム入城②




使いに出されたふたりが行って見ると、

イエスが話されたとおりであった。

彼らがろばの子をほどいていると、その持ち主が、

「なぜ、このろばの子をほどくのか」と彼らに言った。

弟子たちは、「主がお入用なのです。」と言った。




ルカの福音書19章32・33・34節



主のことばの真実



使いに出されたふたりは、

主に言われて、すぐに従いました。



するとどうでしょう。

向こうの村に行ってみると、

イエスが話されたとおりだったのです。



ふたりが『ろばの子』をほどいていると、

その持ち主が、 「なぜ、この『ろばの子』をほどくのか」

と彼らに言いました。



弟子たちが、

「主がお入り用なのです。」

と言うと、許してくれたので、

ふたりは、

その『ろばの子』を、

イエス・キリストのもとに連れてきました。



このふたりの弟子は、

イエス・キリストのことばに、

すぐに従ったのです。



単純に、主イエスが言われる命令のままにしたのです。



その時、主イエスのことばの真実、

主イエスが言われた通りであることを知り、体験したのです。



彼らは、こうは言いませんでした。

「そんな向こうの村まで行っても、『ろば』なんかいるかどうかわからない。  

それに、『ろば』がいたとしても、  

主がお入り用だと言ったら貸してくれるなんて考えられない。  

第一『ろばの子』なんて、何の役に立つんだろう。  

私には、わからない。  

こんなことに従うなんて馬鹿げている。  

こんな愚かなことは出来ないよ。」  



もし、彼らがこう言っていたら、

彼らは、

主イエスのことばの真実、

主イエスのことばは、

言われたとおりになるということは、

いつまでも知らないでいたことでしょう。



わたしたちも、

主が語られるとき、

主が、私たちに何かを命じられるとき、

すぐに、言われるままに、従いましょう。



その時、

主のことばの真実、

主が語られたことは、

その通りになるということを、

私たちは体験するのです。



もしかしたら、

そのことばは、

私たちの理解を超えているかもしれません。



常識という枠を、

はみ出しているかもしれません。

とても信じることが、

むずかしいかもしれません。



でも、確かに、

主が語っておられるということがわかったなら、

このふたりの弟子たちのように、

わたしたちも、主の言われるままに従いましょう。



そのとき、

主は必ず、

ご自身のことばが真実であることを、

はっきりと現わしてくださいます。

2016年11月10日木曜日

11月10日(木) エルサレム入城①




向こうの村に行きなさい。  

村に入るとすぐ、まだだれも乗ったことのない、  

ろばの子が、つないであるのに気がつくでしょう。  

それをほどいて、引いて来なさい。

もし『なぜそんなことをするのか』と言う人があったら、

『主がお入り用のです。  

すぐに、またここに送り返されます』と言いなさい。」




マルコの福音書11章2・3節



私たち一人一人を愛し、

全世界・全宇宙を創造された聖書の真の神さまは、

すべての人の人生に、目的と計画を持っておられます。



イエス・キリストは、私たち一人一人に、必ず使命を与えてくださるのです。



目的のない命も、

計画のない人生も、

使命がない人も、

ひとりとして決していないのです。



あなたにも、主は計画と目的、

そして必ず、あなたでなければならない使命を持っておられるのです。



イエス・キリストも、

人となって、この地上に来られたとき、

はっきりと、父なる神から使命を与えられていました。



イエス・キリストは人類の救い、

人間を罪からの贖い、救うという目的のために、

愛である神さまの計画の中で、この地上に遣わされて来られたのです。



そして、その使命の成就の時が近づいていました。



十字架が迫っていたのです。



今日から、

イエス・キリストが、
人として地上で過ごされた生涯の最期の週、

彼の地上での生涯のクライマックスに目をとめて書いていきたいと思います。



ろばの子を選ばれる主



イエス・キリストは、弟子たちとともにエルサレムに近づいておられました。



ユダヤの最も大きな祭りである「過ぎ越しの祭り」が近づいていたからです。



イエス・キリストは、

オリーブ山のふもとのベテパゲとベタニヤに近づかれたとき、

ふたりの弟子を、使いに出して言われたのです。



「向こうの村に行きなさい。  

村に入るとすぐ、まだだれも乗ったことのない、  

ろばの子が、つないであるのに気がつくでしょう。  

それをほどいて、引いて来なさい。  

もし『なぜそんなことをするのか』と言う人があったら、  

『主がお入り用のです。すぐに、またここに送り返されます』と言いなさい。」



イエス・キリストは、

過ぎ越しの祭りのために

エルサレムに行かれるのに、

何とろばの子を選ばれて、

わざわざふたりの弟子を使いに出して、呼びよせられたのです。



実はこの日、

イエス・キリストは、

エルサレムに、 王の王として入場されることになっていました。



実際、このあと

イエス・キリストが、

ろばの子に乗って、

エルサレムに入場されるとき、

人々は、

しゅろの枝をふって、

「ホサナ。ホサナ。」と叫んで彼らを迎えたのです。



イエス・キリストは、

この週、十字架にかかられることを、すでに知っておられました。



イエス・キリストが、

この地上に来た一番大切な使命を果たす週に、

エルサレムに、王の王として入場されたのです。



言ってみれば、

これは、イエス・キリストの最も晴れやかな時でした。



ところが、

その時に、イエス・キリストが選ばれた乗り物は、

馬ではなく、「ろば」だったのです。



しかも、仕事も十分出来ない「ろば」だったのです。



私たち日本人には、「ろば」と言っても、あまりなじみがありません。

多くの方は、イラストなどで見る可愛い「ろば」を想像します。

しかし観光用の「ろば」は別として、

普通イスラエルにいる「ろば」と言うのは、

朝から晩まで働かされて目がくぼみ、

回りを虫たちが、ブーンと飛んでいるそんな動物です。



「ろば」は、とても忠実ではありますが、あまり利口とはいえません。

もちろん足も速くはなく、戦争や、戦いには向いていません。

それに比べて馬は足も速く、戦いにはもってこいですし、

行進のときも馬に乗れば、とても格好良くなります。



しかし、イエス・キリストは、馬ではなく、

「ろば」を、しかも「ろばの子」を選ばれたのです。



これが、イエス・キリストの選びでした。



しかも、わざわざふたりの弟子たちを使いに出して、

向こうの村にいるあの「ろばの子」と名指しで選んだのでした。



主は再臨の前に、ご自身の道備えをするために、

すばらしい馬ではなく、

この「子ろば」のような、

人の目には弱く役に立たない愚かに見えるものを、選んでくださるのです。



あなたが、たとえ弱さを覚え、

自分には知恵も力も何もないと思って落胆していたとしても、

そんなあなたに、主は目を留めて、呼んでくださり

「あなたに乗って、この終りのときに働きたい、再びエルサレムに帰りたい」

と言ってくださるのです。



この「子ろば」のように、あなたもすぐに応答してください。

主は喜んで、あなたを用いてくださいます。

2016年11月7日月曜日

11/7 (月) 今日のみことば 映像

11月6日(日) イエスの示された愛の極み⑤




それで、
主であり師である
このわたしが、
あなたがたの足を
洗ったのですから、
あなたがたもまた
互いに足を
洗い合うべきです。



ヨハネの福音書13章14節


互いに愛し合いなさい


最後の晩餐と言うと、
レオナルド・ダ・ビンチが
描いた絵が有名ですね。
ですから、
最後の晩餐と聞くと、
あのダ・ビンチの絵を
思い出す方も
多いのではないでしょうか。


イエス・キリストを中心に、
12人の弟子たちが
椅子に腰掛けている姿を
思い浮かべてしまいます。


しかし、
これは西洋人の書いた
最後の晩餐であって、
本当は、
こんなふうにしては
いなかったのです。
もしそうだとしたら、
イエス・キリストは、
弟子の足を洗うために、
テーブルの下にもぐり込んで、
狭い中で
大変なことになっています。


本当はどうだったかというと、
当時の食事のとり方は、
体を横にして、
左手で頭を支え、
右手を伸ばして
真ん中にある、
あるいは前にある食べ物を
取るという形でした。


今だと行儀が悪いと
怒られてしまいますが、
それが当時の習慣だったのです。


また、
ひとりの人が
横になっているところの
お腹に、次の人の頭が来ます。


ですから、
足は外のほうに出ていくので、
イエス・キリストが
足を洗ったのは、
とても自然で
無理のないことだったのです。


イエス・キリストは、
誰も目を留めない
外に飛び出している
汚れ切った弟子たちの汚い足を、
ひとりずつ全員洗われました。


イエス・キリストは、
十字架のかかる前に
真実な愛、
本物の愛とは何かを、
弟子たちに示されたのでした。


行動をもって、
弟子たちに
愛の模範を示されたのでした。


弟子たちの足を
洗い終わったあと、
主は、上着を着けて、
再び席について
彼らに言われました。


「わたしがあなたがたに
何をしたか、わかりますか。
あなたがたは
私のことを先生とも主とも
呼んでいます。
確かにわたしは
そういうものです。
その主であり
師であるこのわたしが、
あなたがたの足を
洗ったのですから、
あなたがたもまた
互いに足を
洗い合うべきなのです。
わたしが
あなたがたにしたとおりに、
あなたがたもするように、
わたしはあなたがたに
模範を示したのです。
あなたがたが
それを行うときに、
あなたがたは
祝福されるのです。」


イエス・キリストが
十字架にかかる直前まで、
誰が偉いかと争っていた
弟子たち、
その弟子たちに、
イエス・キリストは、
ご自身の行動をもって
教えられました。


弟子たちは、
この時すぐには
イエス・キリストの愛と
真意を、
わかりはしませんでした。


しかし十字架の後に、
よみがえられた
イエス・キリストにお会いし、
ペンテコステの日に、
聖霊を受けた後に、
弟子たちは、
イエス・キリストの
この時の模範を
思い起こしたのです。


そして、
彼らも互いに
足を洗い愛し合うものへと
変えられたのでした。


真実な愛は必ず人を変え、
実をつけるのです。


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2016年11月5日土曜日

11月5日(土) イエスの示された愛の極み④




ペテロはイエスに言った。

「決して私の足をお洗いにならないでください。」

イエスは答えられた。

「もしわたしが洗わなければ、  

あなたはわたしと何の関係もありません。」




ヨハネの福音書13章8節



足を洗うだけで



足を洗おうとしてくださるイエスに、

さらにペテロは言いました。



「決して私の足をお洗いにならないでください。」



イエスは答えられました。



「もしわたしが洗わなければ、あなたはわたしと何の関係もありません。」



するとシモン・ペテロは慌てて言いました。



「主よ。私の足だけでなく、

手も頭も洗ってください。」


今まで足を洗わないでくださいと言っていたのに、

イエス・キリストに洗わないと関係ないと言われると、

今度は突然、足だけでなく、手も頭も洗ってくださいとペテロは言いました。

何とも現金なというか、

いかにもおっちょこちょいのペテロらしいですね。



でも水浴した者は、足以外は洗う必要はなかったのです。



それで全身きよいとされたのです。



私たちも、

イエス・キリストの十字架を信じていても、

ペテロのように、

それだけで足りなくて、足も頭もと、

つまり、 立派な行動や断食や慈善行為が必要だと 思ってしまいやすいのです。

もちろん、

それらはすばらしいことですが、

それは救いの結果として、後でついてくるものです。



救われるのには、

ただ十字架だけでいいのです。

ただ、

イエスキリストの十字架を

信じるだけで、

私たちは、

主のものとして聖別され、

きよいものとしていただけるのです。



2016年11月4日金曜日

11月4日(金) イエスが示された愛の極み③




イエスは答えて言われた。

「わたしがしていることは、  

今はあなたにはわからないが、  

あとでわかるようになります。」




ヨハネの福音書13章7節



あとでわかる愛



イエスは弟子たちの足を、ひとりずつ順に洗っていました。

そして、シモン・ペテロのところに来られたのです。

すると、ペテロは、イエス・キリストに言いました。



「主よ。あなたが、わたしの足を洗ってくださったのですか。」



すると、イエス・キリストは、すぐに答えられました。



「わたしのしていることは、  

今はあなたにはわからないが、あとでわかるようになります。」



イエスは「あとでわかるようになる。」と言われました。



確かに真実の愛、

本当の愛というのは

多くの場合、

その時は誤解され、わかってもらえないことが多いのです。



しかし、真実な愛は後の日に、明らかになるのです。



例えば、

この地上で示された最高の愛である イエス・キリストの十字架を考えてみてください。

イエス・キリストが十字架にかけられたとき、 だれ一人として、 イエス・キリストの十字架を理解した人は、いなかったのです。

イエス・キリストは、

私たちの罪の身代わりとなって、

ご自分の命を捨てて、死にまで従って、

十字架の上で苦しみを受けてくださったのです。



しかし、そのとき、手塩にかけた弟子たちは逃げていきました。



筆頭弟子のペテロは、呪いをかけて、

イエスを否み、知らないと言いました。



亜麻布を脱ぎ捨てて、はだかで逃げた弟子たちもいました。



イエス・キリストの愛に、

まるで恩を仇で返すようにしたのは

弟子たちだけではありません。

群衆は「イエスを十字架につけろ」と叫び、

彼らの罪のために苦しんでいるイエスに、

「十字架から降りてきたら信じてやる」

と罵声を浴びせかけたのです。



だれも、イエス・キリストの愛が、わかっていませんでした。

それどころか、必要とさえ思っていなかったのです。



ガリラヤから来た女たちは、確かにイエスを愛していました。

ですから悲しくて、辛くて泣いていました。



しかし、彼女たちでさえ、

イエス・キリストが、

自分のために、十字架で死んでくださっているということは、

わかっていなかったのです。



この時、だれ一人として、

イエス・キリストの十字架が、

自分の救いのために必要で、

イエス・キリストが、

そのために生命をかけて贖い、

愛を示してくださっているということを

理解している人はいなかったのです。



イエス・キリストは、

最も大きな最高の愛を示している

その只中で、誰にもわかってもらえず、

たった独りぼっちで孤独だったのです。



そして、父なる神様にまで、

私たちの身代わりに捨てられて、

本当に孤独の中を通られたのです。



しかし今、イエス・キリストは、

全世界に、時代と歴史を越えて、

ご自分を心から愛し、

殉教してでも従ってくる弟子たちをお持ちになっています。



これが、真実な愛が見る実なのです。



本当の愛は、後の日に、必ず豊かな永遠に至る報いと実をつけるのです。



もしかしたら、

今、あなたが誰かのために、

真実に、主の愛をもって愛していたとしても、

理解されず、全くわかってもらえず、

それどころか、

誤解と中傷の中にいたとしても、

すぐに投げ出したりしないでください。



心は痛むかもしれません。

けれども、真実な愛は、必ず後の日に豊かな報いをもたらすのです。

天にまで及ぶ永遠にいたる実を必ずつけるのです。



だから、主の愛をもって、

イエス・キリストがなされたように

私たちも無理解と誤解の中で、愛を示し続けましょう。

2016年11月3日木曜日

11月3日(木) イエスが愛された愛の極み②




夕食の席から立ち上がって、

上着を脱ぎ、手ぬぐいをとって腰にまとわれた。

それから、たらいに水を入れ、弟子たちの足を洗って、腰にまとっておられる手ぬぐいで、ふき始められた。




ヨハネの福音書13章4・5節



弟子たちの足を洗われるイエス



イエス・キリストの回りを取り囲んで12人の弟子たちが、

みんなそろって夕食を食べていました。



すると突然、

イエス・キリストは夕食の席から立ち上がり、

上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれたのです。

それから、たらいに水を入れ、

回りにいた弟子たちの足を洗って、

腰にまとっておられる手ぬぐいで、ふき始められました。



弟子たちの足は、とても汚れていました。

当時は立派な履物などはありません。

それどころか、裸足でいた人もいたほどです。

日本でいえば地下足袋のような履物をはいていたのでしょう。

足も、今のようなズボンではなく、

むしろ女性のスカートに近いものをはいていました。



ですから、足は、とてもとても汚れていたのです。

その汚れきっていた弟子たちの足を、

イエス・キリストは、一人ずつ洗われたのでしょう。

それは弟子たちへの模範を示すためでした。

愛することの模範を示すためでした。

愛することの模範に、足を洗って弟子たちに示されたのです。



師であり、先生であったイエス・キリストが、

弟子たちの一番汚れていた場所を洗ってくださったのです。



人が、だれかを好きになり、愛していると言うときは、

その人の何かが、

あるいはどこかが、 自分の好みにあっているということです。



ですから、

しばらくするといやになってしまい、

その人の思っていたことと違って期待はずれだったりすると、

もう嫌いになってしまいます。



残念なことに、

場合によっては、愛が憎しみに変わることさえあるのです。



しかし、イエス・キリストは違います。

私たちが、何かが出来るから愛してくださるのでも、

姿かたちが格好良くて、

イエス・キリストのお気に入りのことをするから

愛してくださるのでもないのです。



それどころか、

イエスは、私たちの最も醜いところを

そのまま受け止め愛してくださるのです。

自分でも見たくないような、

見ようとしないような醜い汚れきったところを

イエスの十字架の愛と血潮で洗い流し、

清めて、きれいにしてくださるのです。



これが、イエス・キリストの示された愛でした。



これが、私たちの主、イエス・キリストです。



愛が憎しみに変わることなど、

イエス・キリストにはありえないのです。

イエス・キリストが

愛してくださった真実な愛は、

憎しみは変わることなどないからです。

2016年11月2日水曜日

11月2日(水) イエスが示された愛の極み




さて、過越の祭りの前に、この世を去って父のみもとに行くべき自分の時が来たことを知られたので、

世にいる自分のものを愛されたイエスは、

その愛を残るところなく示された。




ヨハネの福音書13章1節



イエス・キリストが、

十字架にかかる時が近づいていました。



いよいよ、

この世を去って、

父なる神のみもとに帰られる時が来たのです。



イエス・キリストが、

こよなく愛していた弟子たちとも

別れなければならない時が来ようとしていました。



それで、イエス・キリストは、

十字架にかかる前夜に、

弟子たちとともに最後の晩餐をされ、

その愛を残ることなく示されたのです。



今日からは、その時のことをお話ししましょう。

2016年10月31日月曜日




まことに、あなたがたに告げます。

世界中のどこででも、この福音が宣べ伝えられる所なら、

この人のした事も語られて、

この人の記念となるでしょう。




マタイの福音書26章13節



この時にすべきこと



最後に、

イエス・キリストは、

決して貧しい人々への施しを、

否定されたのではありませんでした。



むしろ、

イエス・キリストは、

いつも貧しい人々のあいだを歩かれ、

生活を共にされたのです。



 しかし、

このときは、

まさにイエス・キリストが

十字架にかかられる直前に来ていました。



貧しい人々には、

本当に施したい思うなら、

いつでも出来ます。



 しかし、

イエス・キリストは、

このとき死を目前にしておられました。



 イエス・キリストに対して愛と献身を示すには、

この時をおいて他にないという時が確かにあるのです。 



この女の人は、その時と機会を直感的に知っていました。

その時を見抜き、その機会をとらえたのです。



なぜ、彼女には、それが出来たのでしょう。 



この女の人が、主を真に愛していたからでした。

人からみたら「むだ」と思えるようなことも、

イエス・キリストに対しては

惜しみなくすることが出来る愛が、あふれていたのです。



 人にはむだなこと、

大きな犠牲と思えることも、

この人にとっては、価値のあることだったのです。



決して犠牲とは思わなかったのでしょう。 



私たちも、

主イエスに対して

愛と献身を示す時というのがあります。



この世の価値観や人間的な判断によって、

主の時を、見失わないようにしましょう。 



貧しい人は、いつもいます。

しかし、

この時でなければならない主の時というのが、

確かにあるのです。



あなたも主が呼んでいる


そして、今、

これを読まれているあなたにも、

主イエスが呼びかけをしておられるのではないでしょうか。



終末のリバイバルの時が始まってきています。



今こそ、あなたの愛と献身を示す時ではないでしょうか。



主イエスに、あなたの出来る心からの愛を示しましょう。

イエス・キリストに、あなたの真実な愛を捧げましょう。

主イエス・キリストは、

必ずあなたの献身に愛と真実を持って応え、

大いなる祝福を返してくださいます。

2016年10月30日日曜日

10月30日(日) ナルドの香油⑤




まことに、あなたがたに告げます。

世界中のどこででも、福音が宣べ伝えられる所なら、

この人のした事も語られて、

この人の記念となるでしょう。




マルコの福音書14章9節



私たちも愛に生きる



イエス・キリストは

「世界中どこででも、

福音が宣べ伝えられる所なら、  

この人のした事は語られて、この人の記念となるでしょう。」

と言われました。



今、このイエス・キリストのことばは成就しています。

聖書に記されたこの記事は、世界中で、語り続けられているのです。



私たちは、

知らないあいだに、

日々の生活の中で、

効率ばかりを考えて生きていないでしょうか。



イエス・キリストへの愛と献身というよりも、

弟子たちと同じように、

目の前の損得や、

この世の価値観や人間的な判断の中に、

気づかないうちに、

はまってしまっていないでしょうか。



私たちが真に主を愛し、

イエス・キリストへの愛の中に生きようとするとき、

今でも弟子たちのように、

私たちを責める人々はいるかもしれません。



しかし、

イエス・キリストは、

私たちの愛を、

決して軽んじたり馬鹿にしたりはなさらないのです。



あなたに出来るその愛を、

主イエス・キリストに示すとき、

主は喜んで、

それを受け取り、

私たちが思うよりも

はるかに偉大なことを

成してくださる方なのです。

2016年10月29日土曜日

10月29日(土) ナルドの香油④




そのままにしておきなさい。  

なぜこの人を困らせるのですか。  

わたしのために、りっぱなことをしてくれたのです。       

・・・・・中略・・・・・  

この女は自分にできることをしたのです。  

埋葬の用意にと、  

わたしのからだに、前もって油を塗ってくれたのです。




マルコの福音書14章6・8節



自分に出来る事をしただけで



弟子たちの言葉を聞くと、イエスはすぐに言われました。



「そのままにしておきなさい。  

なぜこの人を困らせるのですか。  わたしのために、りっぱなことをしてくれたのです。  

貧しい人たちは、いつもあなたがたといっしょにいます。  

それであなたがたのしたいときは、いつでも彼らに良いことをしてやれます。  

しかし、わたしは、いつもあなたがたといっしょにいるわけではありません。  

この女は自分にできることをしたのです。  

埋葬の用意にと、わたしのからだに、前もって油を塗ってくれたのです。  

まことにあなたがたに告げます。  

世界中のどこででも、福音が 宣べ伝えられる所なら、  

この人のした事も語られて、この人の記念となるでしょう。」



イエス・キリストは、

この女をきびしく責めていた弟子たちをたしなめられて

「この人はわたしのためにりっぱなことをしてくれたのです。」

と言われました。


実は、イエス・キリストが十字架にかかる時が近づいていたのです。

もちろん、弟子たちも、この女の人も、そんなことは知りませんでした。



しかし、イエス・キリストは知っておられました。



ですから

「わたしはいつもあなたがたといっしょにいるわけではありません」

と言われたのです。



しかも、イエス・キリストは、こう言われています。



「埋葬の用意にと、わたしのからだに、前もって油を塗ってくれたのです。」



はっきりと、イエス・キリストは、十字架を見据えておられました。

もう間もなく、わたしは十字架にかかり死を選ばなければならない。

その前に、この女の人は、わたしに油を塗ってくれたのだ。

イエス・キリストは、そう言われたのです。



というのも、ユダヤ人たちは死体を埋葬する時、油を塗ったからです。



おそらく、この女の人は、そんなことは全く考えていなかったでしょう。

イエス・キリストが十字架にかかることも、

その前に油を塗ることになったことも、

この人には、全く及びもつかないことだったでしょう。

しかし、

この人が自分にできることを

イエス・キリストにしたときに、

彼女の出来る最高の愛を、

主に捧げたときに、

なんと、十字架のための備えの油注ぎとなったのです。



この人が考えたのではありませんでした。



しかし、

イエス・キリストへの真実な愛は、

どんな計算や効率よりも、

もっと大いなることを成すのです。

2016年10月28日金曜日

10月28日(金) ナルドの香油③







すると、何人かの者が憤慨して互いに言った。

「何のために、香油をこんなにむだにしたのか。  

この香油なら、三百デナリ以上に売れて、  貧しい人たちに施しができたのに。」

そうして、この女をきびしく責めた。




マルコの福音書14章4・5節



愛は計算や効率を越える



ところが、弟子たちの何人かは、これを見て憤慨して言いました。



「何のために、香油をこんなにむだにしたのか。  

この香油なら、300デナリ以上に売れて、貧乏な人たちに施しができたのに。」



そう言って、この女の人をきびしく責めたのです。

確かに弟子たちの言うことは妥当なことに思えます。

と言うのも貧しい人に施しをすることは、 ユダヤ人にとっては重要な奉仕であったからです。



この女の人のつぼの中には、 300デナリ以上に売れるだけの香油が入っていました。

当時、普通の労働者の1日の賃金は、1デナリでした。

ですから、300デナリというのは、 普通の労働者の300日分の給料に匹敵します。

たったひとりの人に、一瞬に香油を注いでしまうより、

この香油を売って、多くの貧しい人を助けるほうが、

はるかに効率が良いではないか。

弟子たちは、そう思ったのでしょう。



なるほど、普通に考えれば弟子たちの言うことは妥当に思えます。

しかし、弟子たちは一番大切なものを見落としていました。



それは、イエス・キリストへの、この女の人への愛でした。



愛は効率や計算では動かないのです。

そして愛は、人の計算や効率を超えて、はるかに大きなことを成すのです。



この女の人にとっては、

イエス・キリストに、

今までの人生を注ぎ出すことも、

300デナリになる香油を一瞬にして失うことも、

全く惜しくなかったのです。



この女は計算や打算で動いたのではありませんでした。

イエス・キリストへの愛が、この女を動かしたのです。

本当の愛は計算しないのです。


2016年10月27日木曜日

10月27日(木) ナルドの香油②




イエスがベタニヤで、

ツァラアトに冒された人シモンの家におられたとき、

食卓に着いておられると、

ひとりの女が、純粋で、非常に高価なナルド油の入った石膏のつぼを持って来て、

そのつぼを割り、イエスの頭に注いだ。




マルコの福音書14章3節



惜しみなく注がれた香油



その時、突然一人の女性が

イエス・キリストに近づいてきました。



彼女は、その手に、

純粋で非常に高価なナルド油のはいった石膏のつぼを持っていました。



彼女はイエスに近づき、

そのつぼを割り、

イエス・キリストの頭の上に注いだのです。



この純粋なナルド油というのは、

ヒマラヤ原産のナルドという植物の根茎から取った香料による香油で、

非常に高価なものでした。



当時、女性たちは、自分が得たお金をこんな風にして、

純粋で高価なナルド油に変えて、

つぼの中にためていたのです。



今ふうに言えば、結婚準備のための積立貯金のようなのでした。



しかし、

それは現代の貯金なんかよりも、

はるかに真剣なものだったようです。

少し大げさな言い方をすれば、

女性のそれまでの生命そのもの、生活そのものだったのです。



この女の人は、そのつぼを、イエス・キリストのために割ったのでした。

そして、この最高の香油を、イエス・キリストに注いだのです。



それは、単に心のこもったおもてなしという以上のものだったのです。



なぜなら、

このつぼの中にためられたナルドの香油は、

いつか結婚するときのために蓄えられた 彼女の生命そのものだったからです。

この人は、

イエス・キリストを愛するあまり、

今までの自分の人生そのものを、イエス・キリストに捧げたのでした。

大切に、大切に蓄えてきたものを、イエス・キリストに注ぎ出したのです。



イエス・キリストへの熱い思いと愛が、この人に、そうさせたのです。



それは誰から言われたのでもなく、

この人の心の底からあふれてきた主イエスへの愛が、そうさせた行動でした。

2016年10月26日水曜日

10月26日(水) ナルドの香油




さて、イエスがベタニヤで、

ツァラアトに冒された人シモンの家におられると、




マタイの福音書26章6節



エルサレムから3キロメートル離れたところに、ベタニヤと言う町があります。

このベタニヤには、

かつてイエス・キリストによって、

死からよみがえったラザロとその姉妹であるマルタとマリヤが住んでいました。



今回は、

そのベタニヤに住んでいた らい病人(ツァラアトに冒された人)のシモンの家で

起きたことを書きたいと思います。



らい病人の家に来られた主イエス



当時らい病人は、人々と共に住むことは出来ませんでした。

それどころか、

家族からさえも隔離されて

「らいの谷」というところに居なければならなかったのです。



なぜなら、

らい病というのは、

単なる病気というのではなく、

汚れた病気というふうに考えられていました。



すなわち、宗教的にも汚れており、神に呪われていると考えられていたのです。



それなのに、このシモンは、ベタニヤの町に住んでいることができたのです。

おそらく、もう、らい病が完全に直っていたのでしょう。



とはいえ、

かつて「らい」であったというだけでも人々は避けるはずですが、

イエス・キリストは避けるどころか、

その「らい」だったシモンの家に来られたのです。



人々が、神に呪われていると思っている人のところへ、

イエス・キリストは来られたのです。



そして、共に食卓につかれました。



その人の生活の、ただ中に来てくださったのです。



そこには、死の床からイエス・キリストによって、

よみがえらされ、復活の奇跡に預かったラザロも、

その姉妹のマリヤとマルタたちもいました。

2016年10月22日土曜日

10月22日(土) ラザロの復活⑤







そこでイエスは、

またも心のうちに憤りを覚えながら、墓に来られた。

墓はほら穴であって、石がそこに立てかけてあった。




ヨハネの福音書11章38節



再び主が来られる前に



主イエス・キリストの再臨が近づいている今、

主イエス・キリストは、

私たちを、マルタやマリヤのような取り扱いの中に置かれていることが、

きっとあると思います。



あなたにとってのラザロが何であれ、

主イエスは、

あなたを愛して、

あなたのところに、

必ず来てくださるのです。



ただ、彼女たちが

自分の願いと計画が破られ、裏切られたと思ったように、

あなたもあなたの願いや計画は崩されるかもしれません。

あなたの思う通りには、

主が答えてはくださらないこともあるでしょう。



しかし、

主イエスは、

あなたの思いを

はるかに超えるすばらしい神の栄光を

見せてくださるのです。



罪人である私たち人間が、

及びもつかないすばらしい神の栄光を

見せてくださるのです。



あなたのラザロに対する神の計画を、現わしてくださるのです。



そのことを覚えていてください。



主イエスは、不可能のないお方。



主イエスは、決して裏切らないお方だからです。


2016年10月21日金曜日

10/21(金)パソコン版 10月21日(金) ラザロの復活④







そして、そう言われると、大声で叫ばれた。

「ラザロよ。出てきなさい。」




ヨハネの福音書11章43節



はるかに高い神の愛と計画



私たちにも、

主イエスを信じて期待して待ち望んでいたのに、

答えてくださらなかったという経験があるかもしれません。



なぜ、主イエスは、こんなときに黙り続けていらっしゃるのだろう。

どうして、すぐに来てくださらないのだろう。

これで、もうおしまいだ。

そう思えるようなことが、起こるかもしれません。



でも、知って欲しいのです。

父なる神さまのラザロに対する御心はいやしではなく、復活だったのです。



イエス・キリストも人としては、

すぐに飛んで行って、いやしてあげたかったでしょう。

しかしイエス・キリストは、父なる神の御心の中に生きておられました。

イエス・キリストは、

マルタやマリヤ、

そしてラザロよりも、

はるかに高い父なる神の愛と神の計画の中を

生きておられたのです。



マリヤもマルタも、

ラザロのいやしを信じていましたが、

ラザロが復活するなどということは、

考えることすらできなかったのです。



不信仰と言うにはかわいそうです。

彼らにはラザロが、よみがえってくるということなど、

発想さえ出来なかったのです。

しかし、主の御心は、そこにありました。

彼らの信仰よりも、もっと高いところにあったのです。



イエス・キリストの彼らに対する愛は深く、

彼らの信仰よりも、はるかに高かったのです。

主は、彼らのいやしの信仰を越えて働かれ、

彼らの復活の信仰へと、さらにひきあげられたのです。

そして、彼らの主に対する愛をもっともっと強くされたのです。


これが、私たちの信じている主なのです。

これが、主なるイエス・キリストなのです。

彼は決して私たちを裏切ることはないのです。


もしあなたが、かつて祈っていたけど答えられなかった。

もう時は過ぎてしまった、



そう思ってあきらめていることがあるなら、

もう一度、主に目を向けてください。

ラザロに対していやしではなく、

復活を用意されていた主が、

あなたにも復活の奇跡を見せてくださるからです。


2016年10月20日木曜日

10月20日(木) ラザロの復活③




<イエスは彼女に言われた。

「もしあなたが信じるなら、あなたは神の栄光を見る、    

とわたしは言ったではありませんか。」




ヨハネの福音書11章41節



従う者が見る神の栄光



イエス・キリストは心に憤りを覚えながら、

ラザロの墓の前に来られました。

そのお墓は、ほら穴になっていて、

石がそこに立てかけてありました。



そのとき、イエス・キリストは言われました。



「その石をとりのけなさい。」と。



マルタは、すぐに言いました。



「主よ。もう臭くなっておりましょう。  

4日になりますから。」



マルタの心の中に、

「イエスさま、  

どんなにあなたがラザロを愛してくださっていても、もう遅いのです。  

いまさら、死んで4日にもなるのに。  

石を取りのけても何にもなりません。  

もうラザロは、戻ってはきません。」



そういう思いが、かけめぐっていたかもしれません。



しかし主は、はっきりと言われたのです。



「もしあなたが信じるなら、あなたは神の栄光を見る、  

とわたしは言ったのではありませんか。」と。



マルタは、このことばを聞いたとき、呟くことも疑うことも止めました。

よくわからないまま、とにかく、主の言われる通りにしたのです。



彼らは石を取りのけました。

主イエスに従ったのです。

そのとき、主イエスは目をあげて、父なる神に祈られたのです。



「父よ。私の願いを聞いてくださったことを感謝いたします。」と。

そして祈り終えられたあと、大声で叫ばれました。



「ラザロよ。出て来なさい。」



すると死んでいたはずのラザロが、

手と足を長い布で巻かれたまま、出てきました。

彼の顔は布切れで包まれていました。



ラザロは生き返ったのです。

復活したのです。



何と死んだラザロが、よみがえってきたのです。

主は言われました。



「ほどいてやって帰らせなさい。」



主の御心は、ラザロのいやしではなく、復活にあったのです。



でも、考えてみてください。

なぜイエス・キリストは、わざわざ石を取りのけさせたのでしょう。

イエス・キリストにとって、

石などあっても、別にラザロをよみがえらせることは難しくないはずです。

かりに石が邪魔なら、

イエス・キリストがよみがえられたときのように

天使に、石を取りのけさせることも出来たはずです。



しかし、イエス・キリストは天使ではなく、

マルタやマリヤたちに、

石を取りのけるようにと言われました。

おそらく彼らは、石を取りのければ、

ラザロがよみがえってくるとは思ってもいなかったでしょう。

いやそれどころか、こんなことをしても、

いまさら何にもならないと思ったかもしれません。

けれども、彼らは従ったのです。

イエス・キリストのことばに従ったのです。



ここに鍵があるのです。



神さまは、彼らの従順を通して働かれたのです。

イエス・キリストのことばに従ったとき、

それを信じるものの行為として見てくださったのです。

ラザロは、よみがえりました。

彼らが考えることも、

期待することさえもしていなかったような

大いなる神の栄光が現わされたのです。

主イエスのことばに従う者は、このような神の栄光を見るのです。

2016年10月19日水曜日

10月19日(水) ラザロの復活







そのようなわけで、

イエスは、ラザロが病んでいることを聞かれたときも、

そのおられた所になお二日とどまられた。




ヨハネの福音書11章6節



栄光を受けるため、
すぐ来られないイエス




ラザロが病気になると、

すぐにマルタとマリヤは、

イエス・キリストのところに使いを送りました。



「あなたの愛している者が病気です。」



そう言えば、

すぐにイエス・キリストは飛んできてくれる。

そして、きっとラザロはいやされる。

2人は、そう堅く信じていました。



そして、ラザロも

イエス・キリストが来てくれれば、

「自分は治る」と信じていました。



彼らは、主が自分たちを愛しておられることを、知っていました。

だから、必ず来てくださる。

しかも、すぐに飛んできて、

ら 完全にいやしてくださると信じていたのです。



ところが、主は言われたのです。



「この病気は死で終わるだけのものではなく、神の栄光のためのものです。  

神の子がそれによって栄光を受けるためです。」と。



まるで、ラザロは死ぬと言っているようではありませんか。

しかもイエス・キリストは、

なお2日も、そこにとどまっておられたのです。

それから、やっとイエス・キリストは、

重い腰を上げてラザロのところに行かれました。



しかし、もうラザロは死んでいました。

しかもイエス・キリストが

ベタニヤについたときには、 何とラザロが死んで4日もたっていました。



なぜイエス・キリストは、

すぐに飛んできてくださらなかったのでしょう。

主イエスは、ラザロを愛しておられるのに・・・・。



ラザロもマルタやマリヤたちも、

イエス・キリストを心から愛し、

必ずいやしてくださると信じていたのに。



彼らは信じていたのです。

必ずいやしてくれると信じていたのです。

しかし、イエス・キリストは来てくださらなかった…。



マルタやマリヤは、それでも主を愛していました。

主を信じていました。

でも、もうラザロは戻ってこないのです。

やりきれない気持ちが、彼らの中にあったでしょう。

確かに、天でラザロと会うことができる。



でも、なぜイエス・キリストは、

すぐに来てくださらなかったのだろうか、

という思いはどうしても消えなかったでしょう。



ですから、イエス・キリストがベタニヤに来たとき、マルタは言いました。


「主よ。もしここにいてくだったなら、  

私の兄弟は死ななかったでしょうに。」



イエス・キリストは彼女に言われました。



「あなたの兄弟はよみがえります。」と。



マルタは

「私は、終りの日のよみがえりの時に、  

彼がよみがえることを知っております。」と答えました。



この答えは間違いではありません。

しかし、イエス・キリストの言いたかったこととは違いました。

イエス・キリストは、

ラザロが今よみがえると言われたのです。

しかしマルタにはそれが理解できませんでした。

それを不信仰と言うにはかわいそうです。

だれもこのとき、

主がなさろうとしていることを理解できる人など、

いなかったでしょう。



それほどに、

主がなさろうとしていた業は、

人の理解を、はるかに越える大いなるものだったのです。



マリヤも同じことを言い、泣きました。

回りにいたユダヤ人たちも泣きました。



主イエスは、それをご覧になると、

霊の憤りを覚え、心の動揺を感じて、

言われたのです。



「彼をどこに置きましたか。」と。

そして、イエス・キリストも涙を流されたのです。

2016年10月18日火曜日

10月18日(火) ラザロの復活①







さて、ある人が病気にかかっていた。

ラザロといって、マリヤとその姉妹マルタとの村の出で、ベタニヤの人であった。


イエスはマルタとその姉妹とラザロとを愛しておられた。






<主に愛されていた
マルタとマリヤ、そしてラザロ



エルサレムから3kmほど離れたところに、ベタニヤという町があります。

そこに3人の兄弟姉妹が住んでいました。

マルタとマリヤという2人の姉妹と弟のラザロでした。

彼らは、イエス・キリストを、とても愛していました。

もちろん、イエス・キリストも、彼らのことを、こよなく愛していました。



ところが、ラザロが病気になってしまったのです。

しかも、それはとても重い病気でした。

主を愛し、主に愛されているラザロが、病気になってしまったのです。



おかしいと思いませんか。

ラザロは、こんなに主を愛しているのに、

主も、ラザロを愛されているのに、

なぜ健康ではなく、病気がやってくるのでしょう。

祝福ではなく、

災いとしか思えないようなこんなに重い病気がやってくるのでしょう。



私たちにも、神様がいるなら、神様が愛なら、

なぜ、こんなことが許されるのだろう…、

そう思いたくなるようなことが、許されることがあります。



主に従っているのに、

なぜ、神さま、こんなことが起こるのですか、

と言いたくなるような時があります。



しかしそこには、私たちの考えよりも、もっと深い神の愛と計画があるのです。

ラザロの場合もそうでした。


2016年10月17日月曜日

10月17日(月) マリヤとヨセフ⑥




主によって語られたことは

必ず実現すると信じきった人は、

なんと幸いなことでしょう。



ルカ福音書1章45節



主は私たちにも語られる


私たちにも、主は語ってくださいます。



もしかしたら、


マリヤのように、


天使を通してかもしれません。

(残念ながら、まだ私は一度も天使にはあっていませんが…)



あるいは、

ヨセフのように、

夢の中で語られることがあるかもしれません。

もちろん、

夢は単に潜在意識の場合もありますし、


サタンから来ているものも
ありますから、


十分に吟味が必要ですが…。

確かに、

主は、

いまも語ってくださるのです。



そして、

わたしたちにも、

主の恵みと使命を与えてくださるのです。


マリヤとヨセフに恵みを与え、

人となられたイエスさまの

父と母としての使命を与えられたように。



主が語られたときに、

彼らのように、

その神の言葉を、

そのまま信じて、

すぐに従うことができるようにと、

祈らずにはいられません。



たとえ十字架を負うことがあっても、

誤解や中傷の中に入るとしても、

神の言葉を信じ、

神の言葉に従う者になりたいと願います。



マリヤとヨセフが、

主からの祝福と報いを受けたように、



そのとき、

きっと主は豊かな報いと祝福を、

私たちにも与えてくださるでしょう


2016年10月16日日曜日

10月16日(日) マリヤとヨセフ⑤




主によって語られたことは

必ず実現すると信じきった人は、

なんと幸いなことでしょう。




ルカ福音書1章45節



神のことばを
素直に信じたふたり




ヨセフもマリヤも

ガリラヤという地方のナザレという田舎町に住んでいる

目立たないごく普通の人だったと思います。



けれども、

彼らは主の使いが来たとき、

語られた神のことばを、

素直な心で受け取る心の低さを持っていました。



処女がみごもるという

普通では考えられないことでしたが、

彼らは、すんなりと、

その言葉を信じることができたのです。



彼らは知っていたのです。

神さまという方を。

神さまの言葉を。



だから、

すぐにこれは神さまだ。

本当に神さまが語っていると、

わかったのでしょう。



そして、

マリヤもヨセフも、

実にすんなりと

神の言葉が語られたなら、

すぐに、信じて従っていきました。



神さまは、このふたりの心を知っておられました。

主への信仰と従順を知っていたのです。

神さまは大都会のエルサレムでもなく、

レビ人やパリサイ人のような宗教家のエリートでもなく、

このふたりを、

人となられるイエスさまの

父として、母として選ばれたのでした。



神さまは、心をご覧になるのです。

人々が見ていない、

見ようともしない、 心の中を見ていてくださるのです。