2015年12月31日木曜日

最後の夜を過ごした時津にて

26人の殉教者たちが最後の夜を過ごしたのは、時津の海の沖でした。

1597年2月4日、
彼杵の海から3隻の船に乗せられ、後ろ手に縛られた彼らは時津につきます。

しかし、上陸することは許されませんでした。
キリシタンの町だった時津に上陸したら、
キリシタンたちが殉教者たちを奪いにくるかもしれない、
そう思って心配した役人たちは、彼らが上陸することを恐れて許しませんでした。
そんなテロのようなことはしないのですが・・
役人たちは恐れたのです。

凍てつくような寒い夜を彼らは時津の沖で過ごしました。
後ろ手に縛られたまま、体を寄せ合い、賛美し祈りながら彼らは過ごしたのです。

その時津で、かつて祈ったことがあります。

「どうして26人の殉教者たちには、このような信仰が与えられていたのだろう。
 あの3人の少年たちの持っていた主への愛と信仰、
 そして天国の希望はどこで育まれ培われたのだろうか」と。

私は時津の港をゆっくりと歩きながら、主に祈り主に聞きました。

その時、主は静かに、しかしはっきりと答えられたのです。

「それは家族である。」と。

殉教者たちが育まれた、彼らの家族には神の愛が注がれていました。
主イエス・キリストへの信仰を中心とした神の愛があつたのです。

それは、
主のために自らの命を捧げて
家族を主に委ねることができるほどの信仰でした。

家族の誰かを失っても、彼らは主を信じ愛し続けました。

彼らは天国で再会できることを知っていたのです。
彼らは、この地上では旅人であり、寄留者であることを告白し証ししていたのです。

このような信仰の家族がかつて日本にあったのです。
これは驚きであり、希望でもあります。

再び主は、このような家族を、
 この終わりの時代に起こしてくださっているのでしょう。

黙示録の時代が近づいている今、
 迫害と殉教時代のリバイバルの働きのために、
 日本にこのような家族を、再び建て上げてくださっているのです。

殉教の前にー最後まで魂の救いを求めた父子、ヨハネ五島(デュアン草庵)

西坂の丘で殉教する直前、
26人は浦上のらい病院で、ほんのひと時、休みを取ります。

夜明けとともに、
凍てつくような寒い夜を過ごした時津を出て、
殉教する西坂の丘に向かい歩き続けてきたからでしよう。

ちょうどその時、そこにヨハネ五島のお父さんがやってきました。
まもなく殉教する息子に会い、最後のお別れを言うために、父はやってきたのです。

年老いた父を見つけると、
19歳の青年ヨハネ五島はやにわに駆け寄り、
しっかりと父と抱き合いました。

「お父様。魂の救い、永遠の命に勝るものは何もございませぬ。
 このことをしっかりと心に留めて、油断せず、くれぐれも怠らぬようお願いいたします。」

父が応えます。

「ジュアンよ。その通りだ。
 決して怠りはしないから、お前は安心して、喜んで天に帰って行きなさい。
 お前は神さまに忠誠を尽くして死ぬのだから、父は喜んで見届けよう。
 私もお母さんも必要とあらば、主が思し召しになる時に、
 喜んでこの命をキリストさまに捧げる覚悟も用意もできいる。」

自分が殉教する時に、魂の救い、宣教のことを父に願ったヨハネ五島。
そしてそれをしっかりと受け取って応答した父。
彼らはともに殉教を前にしても、宣教のことを考えていました。

父は今、殉教を前にして、魂の救い、宣教のことを語る息子を見て、とても満足していました。
今まで祈りと愛をもって育んできた息子の信仰は、殉教という試練の中で豊かに開花したのです。

これは素晴らしい祝福でした。

この親子の心にあったのは、魂の救い、宣教だったのです。

最後の願いが聞かれて

26人の中で一番最後に処刑されたのは、
リーダーでもあったペテロ・バプチスタ神父でした。

役人たちは、彼の仲間が次々に殺されるのを見たら、
きっと途中で止めてくれと言って転ぶに違いないと思い、
彼を最後にしたのです。

しかし実はペテロ・バプチスタ神父は祈っていることがありました。

それは、
 最後まで、
 誰一人信仰を捨てることなく、
 全員が主イエスを愛して、信仰を全うして殉教し、
 天国で再会したいと祈っていました。

役人たちは神父の祈りを知りませんでした。

しかし神さまはバプチスタ神父の祈りを聞き、
彼の願いに応えて、
全員がイエスさまを愛し、信仰を全うするのを、神父が見届けてから、
バプチスタ神父を、ご自分の元に呼ばれたのです。

バプチスタ神父は全員が喜んで殉教する姿を見届けると、
天を見上げて、祈りました。
キリストと同じように最後の祈りを捧げました。

 「我が霊を御手に委ねます。」と。 

その時、25人の鮮血で染まったやりが、
ペテロ・バプチスタ神父を突き刺しました。

25人の殉教者たちとともに、彼も喜んで天に帰って行きました。

この後に続く激しい迫害と殉教者たちの先駆けとして・・・

そして今も西坂には、殉教者たちが残していった天の喜びが注がれています。

少年たちの賛美とともにー呪いと死の場所が天の希望と喜びの場所に

 1597年2月5日、西坂の丘に26人がたどり着いた時、
最初に西坂に駆け上がってきたのは、12歳で最年少のルドビゴ茨木でした。

彼は、役人に向かって聞きました。

「私のかかる十字架はどれですか。」

役人は彼を見て一番小さな少年だとわかると、

「ほら、あそこにある、あの一番小さい十字架だ」と指差しました。

ルドビゴはその十字架に駆け寄って、
 その一番小さな十字架を抱きしめ、頬ずりし、
 その十字架に口づけしたと言われています。

26本の十字架が西坂の丘に立った時、
12歳のルドビゴ茨木の隣りには、13歳のアントニオがつけられていました。
2人は十字架の上で一緒に賛美することを約束していました。

少年たちがリーダーのペテロ・バプチスタに賛美してもいいか確認しようとすると、
 バプチスタ神父は主に心を向け黙想していました。

それで2人は、心を合わせて賛美し始めました。

「主の子どもたちよ。主をほめたたえまつれ。」と。

2人の銀の鈴のような声が、西坂の丘に響き渡ります。
すると、そこに来ていた四千人ともいわれる人々が、2人の声に合わせて賛美し始めました。

その時、西坂の丘に天国が降りてきたと言われています。
天の臨在が賛美の声とともに、その場を包んだのです。

今まで極悪犯罪人の処刑場だった場所が、天国に変わったのです。
人々を呪い、恨み、罵声と怒号が浴びせながら死んでいった地獄のような場所に、
賛美の声とともに、 希望と喜びに満ちた天国が赦しとともに降りてきました。

赦しながら〜パウロ三木

1597年2月5日、西坂の丘に26本の十字架が立てられました。
26人の殉教者たちとともに。

その西坂の丘で、
12歳のルドビゴ茨木と13歳のアントニオが、
「主の子どもたちよ。主をほめたたえまつれ。」
と、高らかに銀の鈴のような声で、主を賛美します。
その声に合わせて、四千人とも言われている見物人たちが一緒に賛美を始めました。

その時、西坂に天が降りてきたと言われています。

西坂に、天の賛美の声が響き渡ります。
それまで極悪犯罪人の死刑執行の場所だった西坂に、
天の臨在が注がれ天国が降りてきたのです。

その天の臨在に包まれた賛美の中で、
十字架から身を乗り出し、人々に向かって大きな声で語りだす者がいました。
イエズス会修道士 (イルマン)のパウロ三木でした。
彼は京都で捕らえられてから西坂の丘に着くまで、人々に福音を語り続けて歩いてきました。
そして最後の説教が、この十字架の上からでした。

彼の罪状書きには、こう書いてありました。
「この者共は、フィリピン、ルソンの使節と称して日本に来たり!
それを見てパウロ三木は、人々に向かって叫び語りだしました。

「みなさん、私はれっきとした日本人です。
 イエズス会の修道士で、罪を犯したわけではございません。
 ただイエス・キリストの福音を宣べ伝え、その教えを広めたために殺されるのです。
 しかし私は、そのことを喜んでいます。
 この殉教の恵みを心から神様に感謝しています。
 人が死に臨んで、どうして偽りを申しましょう。
 私は今、真実のみを申しあげています。
 どうか私の申し上げることを信じてください。
 この方、イエス・キリスト以外には救いの道はありません。
 そのことを確信を持って申し上げます。」

パウロ三木の語る言葉には力強さと激しさがありました。
人々は彼の語る言葉に引き寄せられていきました。

さらにパウロ三木は旧友であり、処刑執行の責任者でもある寺沢半三郎の方を見て、言いました。

「 半三郎、私はあなたのことを赦しています。何も恨んではいません。
 今まさに私を処刑しようと槍を持っているこの執行人も赦します。あなた方のことを何も恨んではいません。
 そして私に処刑を宣告された太閤秀吉様を、私は赦します。恨んではおりませぬ。
 それはイエス・キリストが私の罪の身代わりになって十字架にかかり、私を赦してくださったからです。

 イエス・キリストは「なたの敵を愛し、迫害する者のために祈れ」と言われました。
 ですから、私はこの死罪、殉教について太閤様をはじめ、お役人衆たちになんの恨みも抱いてはおりません。
 ただ私が切に願うのは、太閤様をはじめ、半三郎やお役人様、そして日本のすべての人が
 キリストを信じて救いを受け、キリシタンになってくださることです。」

パウロ三木は死を前にして、
目の前にいるまだキリストを知らない人たちの救いを、心から願っていました。
彼の思いは自分の命のことではなく、
自分を殺そうとしている人たちが救われることにあったのです。

最後まで日本の魂を求めてーペテロ・バプチスタ

26人の殉教者たちは、殉教する日の前日、
つまり2月4日に、彼杵の港で、しばし休憩の時間をとりました。
京都から続いた殉教への旅もいよいよ終わろうとしていました。
目の前には大村湾が広っがっていました。

美しい穏やかな大村湾を眺めながら、
26人のリーダーであるペテロ・バプチスタ神父は、
岩に腰掛けながら静かに黙想をしていました。

京都のらい病院に残してきた患者たちの食べる米がないことを、
ふと思い出しました。

仲間たちとしてきた、この国、日本での開拓の働きはどうなるのだろう。
日本のキリシタンたちは、これからどうなるのだろう。
いろいろと思いめぐらすうちに彼の目から涙がこぼれ溢れてきました。
バプチスタ神父の目から涙がとめどなく流れてきたのです。

「今、自分は死地へ向かっている。
 イエス・キリストを伝えたがために殺されようとしている。
 そのことはこの上もない喜びである。
 しかし、この国の宣教は、始まったばかりなのに、
 ともに戦ってきた仲間たちも、
 受け継ぐべき同僚たちまでもが殺されようとしている。
 この国の宣教の働きはどうなるのだろう。
 この国のキリシタンたちは、これからどんな苦難な道を歩むのだろう。
 そしてまだたくさんいるキリストを知らないこの国の人たちは、
 どうなるのだろう。」

そう思うと、
バプチスタの目から涙がとめどなく流れてきて止めることができなくなりました。

彼は自分のために泣いたのではありません。
自分の国、イスパニアのために泣いたのでもありません。
そこに残してきた家族、両親や兄弟たちのために泣いたのでもありません。

私たちの国、この日本の将来を想って泣いたのです。
これから日本のキリシタンたちが通るであろう苦難と迫害を思い泣いたのです。
日本のまだ救われていない魂のことを思うと、
彼の頬を涙がとめどなく流れて止まらなくなったのです。

しかしバプチスタ神父の泣いている姿を
遠くでニヤニヤしながら見ている人たちがいました。
役人たちでした。

彼らは珍しい神父の涙を見ながら、
死ぬのが怖くて泣いていると誤解して、皮肉笑いを浮かべて噂し合っていました。
神父はそのことを知りませんでした。

それを見ていた武士出身のパウロ三木が、
バプチスチ神父に近づいて頼みました。

「バプチスタ神父。
 私にはあなたの涙の意味がわかります。その気持ちもわかります。
 しかし役人たちは、あなたが死ぬのが怖いので泣いていると曲解し、
 あなたのことをなじっています。
 どうか、彼らの前では涙を見せないでください。
 誤解されてしまいますから・・」

そう言われてバプチスタ神父は涙を止めました。
まだキリストを知らない信じていない役人たちにつまずきを与えてはならないと、
冷静さを取り戻し、彼は涙を止めたのです。

私は、ペテロ・バプチスタ神父が、
日本の将来を思って思わずも涙し泣いたのを見て感動を覚えます。
しかし、それにも増して、
まだキリストを知らない人につまずきを与えてはいけないと
その涙を止めたことに、もっと深い感動を覚えます。

これど宣教師魂。
ミッショナリースピリット。
この終わりの時代の宣教を戦っていくために、
彼が持っていたこの魂への情熱を
私たちも主からいただけるようにと、祈らずにはいられません。

2015年12月30日水曜日

最初の殉教者ーフィリッペ

26人が長崎の西坂で十字架にかけられた時、
最初に処刑され殉教したのは、フェリペでした。

フェリペのつけられていた十字架の支え木が下に寄り過ぎていて、
 彼の全体重が首の鉄枷にかかり、声も出せず窒息しそうになつていました。
それを見た半三郎が、最初に彼を殺すように合図をしたのです。

フェリペは若干24歳のメキシコ人でした。
父と母はイスパニア(スペイン)人でしたが、メキシコに移住してきたのです。
彼は若き青春時代には放縦な生活をしていましたが、
神様の責める声を聞き、悔い改めて、フランシスコ会修練会に入会し献身します。
しかし結局は辞めてしまい、元の生活に戻ってしまいます。

放蕩していた彼のことを心配した両親(特にお母さん)は、
彼を更生させるために、フィリピンに彼を送り商売をさせました。
商売は成功しましたが、
彼はその時、もう一度神の声を聞き、
献身してマニラのサン・フランシスコ修道会の門を叩きます。

しかし、修道会の院長は、
彼が一度、修道会をやめたことを知っており、
すぐには承諾して入会させてくれませんでした。
修道院長は主に祈りました。
すると主は、修道院長に語られたのです。
「彼を受け入れてあげなさい。」と。

フィリペは神に受け入れられ、
フィリピンのマニラにあるサン・フランシスコ修道会に入ることができました。

それから2年経った時、
修道院長はフェリペに司祭になるために、再びメキシコに戻るようにと言いました。
何とたった2年で(以前に修練会に、いはしましたが・・)、
フィリペは司祭(神父)になることになったのです。
フィリペは司祭叙階のために、再びメキシコに戻ることになりました。
司祭叙階とは、司祭になるための「任命按手式」のようなものです。

フェリペは自分と同じ名前のサン・フェリペ号に乗りフィリピンに向かいます。
ところが、ガレオン船であったそのサン・フェリペ号が
メキシコに向かう途中で難船し、漂着したのが、日本の土佐沖の桂浜でした。

彼は、しばらくすればまたすぐ出航できると思っていました。
ところが、彼らは捕らえられ京都に連れてこられ、
フェリペは殉教者のリストの中にその名が刻まれたのでした。

彼にとって、日本という国は全く知らない国だったことでしょう。
こうして漂着するまで、全く関係なかった国だったと思います。

ところが船はメキシコに行かず、日本に漂着し、彼は捕らえられ殉教者の中に加えられたのです。
メキシコに行って、両親の見ている前で、
特に母親の前で、神父に叙階されることを楽しみにしていたにも関わらず、
彼は日本で殉教者の中に加えられたのです。

彼が西坂の丘で殉教した時、まだ日本に来て4ヶ月しか経っていませんでした。

彼は最初戸惑い、神様の導きと御心がわからなかったようです。
しかし京都から長崎まで殉教者たちと共に歩く中で、
彼の心は変えられていきました。
彼はこう言っています。
「本来司祭になる資格さえなかったこの私を、神様はこの国の殉教者として選ばれました。
 この殉教の恵みに預かることができたのは、ただただ主イエス・キリストの深い恵みによるものです。
 サン・フェリペ号が難船したのは、
   この私を救い、この国の殉教者として選ばれる恵みの中に入れるために主が許されたのです。」と。

日本に一番最後に来た者が一番最初の殉教者になりました。
それは彼自身の選びではなく、主の選びでした。
フェリペには選択の余地はなかったのです。

強いられた十字架、
フェリペにとつて、それはまさに選ぶことのできない強いられた十字架でした。
しかし、その強いられた十字架を通して、
かつて放蕩し放縦な生活話していた落ちこぼれだったフェリペが、
今や主イエス・キリストを命をかけて愛する「殉教者」として選ばれたのです。

実はフェリペの母が、司祭叙階式の時に着る純白の正装を自分で作り待つていたと言われています。
放蕩息子が神に立ち返り司祭になるのを楽しみにしていたことでしょう。

お母さんは、この地上ではその姿を見ることはできませんでしたが、
今、天で、フェリペとともに、主を賛美しながら、
この国のリバイバルのために祈っていることでしょう。

2015年12月29日火曜日

付き人ペテロ助四郎とフランシスコ吉

26人の殉教者たちは、最初24人でした。
京都と大阪で捉えられた時、殉教者たちの名簿、リストには24人の名前しか載せられてはいませんでした。
しかしイエズス会の3人のためにペテロ助四郎が、
またフランシスコ会の6人の神父をはじめとする殉教者たちのために、
フランシスコ吉が身の回りの世話や食事の用意などをするために付き人として一緒に付いて行ったのです。
当時は、囚人の世話をしたり、食事を用意したりするのは、
囚人たちが自分でしなければなりませんでした。
今のように刑務所にいたら食事が出てくるということはなかったのです。
囚人たちが自分で用意しなければなりませんでした。
ですから、誰かが世話をしたのです。

24人の殉教者の場合、
ペテロ助四郎とフランシスコ吉が、彼らの身の回りの世話をしました。
一年で最も寒いと思われる真冬の最中に、
彼らは京都、大阪、堺で引き回されたあと、
姫路、赤穂、岡山、三原、下関とほとんどの道を徒歩で歩きました。
そして九州の地に着いた時には、
この2人も殉教者の中に加わって26人になっていました。

青年ペテロ助四郎とフランシスコ吉は、殉教者たちと共に彼らを見ているうちに、
自分たちも殉教者に加えて欲しいと心から思い、願いはじめました。
役人たちは、繰り返し自分たちも殉教者に加えて欲しいと願う彼らのひつこさと
彼らの持っていた財布の路銀に目を付け、
この2人にも縄にかけ殉教者の中に加わえたのでした。

そしてそれは、この2人、ペテロ助四郎とフランシスコ吉の心からの願いでもあったのです。

少年トマス小崎ー親子での殉教

26人の殉教者の中に親子で、つまり父子で殉教した者がいます。
それが少年トマス小崎と父のミカエル小崎です。
父のミカエル小崎は伊勢生まれの弓師でした。

殉教した時、息子のトマスが15歳、父のミカエルが48歳でした。

この父と子は京都で捕らえられ、戻り橋を渡って、兵庫、明石、姫路、岡山、尾道と旅を続け、
殉教する長崎の西坂の丘まで惹かれて行きました。
その途中の三原に着いた1597年1月19日の深夜に、
三原城の牢獄で、15歳の少年トマスは見張りの目を盗みながら母への手紙を書きました。
涙ながらに母マルタに宛てて書いていたかもしれません。

「母上様、神のみ恵みに助けられながら、この手紙をしたためます。
 ・・・略・・・
 どうか私のことも、父ミカエルのことも何一つ心配なさらないでください。
 パライソなる天国で、母上様とすぐにお会いできるとお待ちしいます。
 臨終には罪とがを熱心に悔い改め、
 イエス・キリストの幾多の恵みを感謝なされば救われます。
 ・・・略・・・
 どうか、2人の弟、マンショとフィリポを、よろしくお願いいたします。
 彼らの信仰を育み、決して異教徒に渡すことのないように、頼みます。
 私は母上様のことを主にお願し、お委ねいたします。
 母上から私の知っている人たちに、よろしく伝えてください。
 母上様、罪とがを日々悔い改めることを忘れぬよう、再び重ねて申し上げます。
 なぜなら悔い改めだけが、唯一の重大字なことですから。
 アダムは神に背き、罪を犯しましたが、悔い改めと贖いによって救われました。
                            陰暦12月2日 
                              安芸国三原城の牢獄にて」

日々悔い改めて、主イエス・キリストにすがるなら、必ずパライソなる天国に行ける。
そして再び、母とも弟たちとも会うことができる。
15歳の少年は、そのことを知っていました。

真夜中に牢獄で手紙を書きながら、
15歳の少年は天で再び母と弟たちに会える日を思いながら、
この手紙を書いたことでしょう。

この手紙を書き終えると、父のミカエルに渡しました。
囚人として連行されている彼には届けるすべがなかったのです。
しかし父ミカエルにも、この手紙を出すすべがなく、
自分の肌着の下に身に付けて、しっかりと隠し持っていました。

西坂で26人が十字架につけられて殉教したあとに、
十字架から降ろされた時、父ミカエルの懐から血に染まったこの手紙が出てきました。

母がこの手紙を目にすることはなかったようです。
しかし今、天で母は2人の弟と共に兄のトマスや父ミカエルと共に
主イエス・キリストの傍で主を賛美していることでしょう。

そしてこの国、日本のリバイバルのために祈っていることでしょう。

料理人マチヤスー自ら殉教への道を選んで

26人の殉教者たちは、最初京都と大阪の教会で捉えられました。
その時に殉教者の名簿に載せられていたのは、24人でした。

その中に料理人マチヤスがいました。

彼は京都の教会で捕縛 手たちがやってきて、
名簿を呼びあげ、
彼の名を「マチヤス、マチヤス」と呼んだ時、
返事をしませんでした。

料理の買い出しに行っていて、いなかったのかもしれません。
それとも、もしかしたら、いたけれども、答えなかったのかもしれません。
本当のところは、わかりません。

でも確かなことは、
どんなに役人たちが
マチヤスマチヤスと呼んでも叫んでも答えがなかったのです。
返事する者がいなかったのです。

その時、一人の人が大きな声で答えました。

「私もマチヤスです。同じ名前なので、私を捉えて捕まえてください。
 私もマチヤスですから、喜んで捕まります。どうぞ捉えてください。」と。

役人は、とにかく人数を揃えなければならなかったので、
「わかった、わかった、もうお前でいい」と言って、彼を捉えました。

この代わりに捕まえられたマチヤスは、どこの誰だったのかは、今もまだわかりません。
ただ名前が、洗礼名が同じマチヤスだったということ以外には・・

しかし彼の名は、天にしっかりと書き記されていることでしょう。

そして、今も天で喜びながら、主を賛美していることでしょう。

2015年12月28日月曜日

少年アントニオ

26人の殉教者の中にいた3人の少年の中に、アントニオという13歳の少年がいました。
彼の父は中国人でお金持ちでした。母は長崎の人でした。

役人たちは、アントニオのイエス・キリストへの信仰を何とかして捨てさせようと、
長崎にいた両親を彼のかけられている十字架の足元に連れてきました。

母が十字架に架けられている息子のアントニオに向かって叫びます

「お願いだから、降りてきて。親に先立つほどの不孝はない。お願いだから降りてきて。」

アントニオは母に向かって言いました。

「お母さん、喜んでください。私は、これから永遠なるパライソ、天国に行くのです。だからおかあさん、喜んでください。」

父親も十字架にすがりついて言いました。

「アントニオ、私の財産を全部お前にやる。だからお願いだから、十字架から降りてきてくれ。お前の言うことはなんでも聞いてやる。頼むから十字架から降りてこい。」

アントニオは父に向かって十字架の上から語りかけます。

「おとうさん、この世の富は儚いものです。やがて消えていくものにすぎません。しかしキリストを信じると永遠の富を受けることができます。お父さん、キリストを信じて永遠の富を蓄えてください。私は、その永遠の富のあるパライソなる天に行くのです。だから喜んでください。」と。

父と母は、十字架にしがみついてアントニオを見上げて絶唱しました。

「お願いだから降りてきて。アントニオ、お願いだから降りてきて。」と。

アントニオは穏やかな表情で父と母に向かって言いました。

「おとうさん、おかあさん、喜んでください。喜んでください。私は永遠なるパライソなる天に行くのです。そこでお父様とお母様をお待ちしています。お父様もお母様も家ス・キリストを信じてよー私のいくパライソなる天に必ず来てください。そこで私はお二人をお待ちしています。お父さん、お母さん、ですから、喜んでください。喜んでください。」と。

気が狂ったようになって叫び絶唱する両親に向かって、
13歳の少年アントニオは穏やかに確信を持って
「喜んでください。喜んでください。」と言いました。

この少年は自分が永遠なる天に必ず行けることを知っていたのです。確信していたのです。

イエス・キリストを信じるものが持つ天からの喜びと平安、そして希望を彼も持っていました。

ルドビゴ茨木

26人の殉教者の中に3人の少年がいました。
その中でも最も最年少だったのがルドビゴ茨木です。
彼は12際のあまり利発ではないけれども、とてもいたいけな少年でした。

佐賀唐津の山本村に26人が着いたとき、彼らを引き渡されたのが寺沢半三郎でした。
彼の兄は寺沢広高といい、かつてパウロ三木から洗礼を受けたことのある人でした。
彼も洗礼を受けてはいませんでしたが、パウロ三木のことをとても尊敬していました。

兄の広高が挑戦出兵でいなかったため、半三郎が26人が殉教する西坂の丘まで彼らを連れて行き、そこで死刑を執行する責任者でした。

半三郎はルドビゴを見て思いました。
何とかして助けてあげたい。
幸いもらった名簿は24人でした。
途中で付き人の二人が殉教者に加わったので26人になっていました。
これなら一人くらいなら助けることができる。
そう思った半三郎は、ルドビゴに言いました。

「ルドビコ、お前の命はわしの手のひらの中にある。お前はわしの養子になれ。養子にしてやろう。そうすれば助かるのだ。何も死に急ぐことはない。」

そう言われたルドビゴは26人のリーダーのペテロバプチスタ神父のところに行き、聞きました。

「神父様、お役人様が、私の養子になれ。そうすれば助かる。と申しますが、どうすればよろしいでしょうか。」

ペテロバプチスタ神父は言いました。

「何も死に急ぐことはない。養子にしてもらいなさい。ただイエス・キリストへの信仰、これだけは失ってはいけません、捨ててはいけませんよ。」

ルドビゴは明るい元気な声で答えました。

「もちろんです。わかりました。」

そして半三郎のところに来て言いました。

「ありがとうございます。それでは養子にしていただきます。ただイエス・キリストへの信仰、これだけは捨てるわけにはいきませんので、この信仰だけは守らせてもらいます。」

半三郎は即座に言いました。

「それだけはダメだ。イエス・キリストへの信仰、それだけはダメだ。それさえ捨てれば後は何をしても構わん。その信仰だけは捨てなさい。」

ルドビゴは、微笑みながら天を指して言いました。

「それでは養子にしていただくことはお断りいたします。イエス・キリスト様とともにパライソに参ります。」

半三郎はなんとかしてルドビゴを助けたくて真剣にルドビゴに向かって言いました。

「ルドビゴ、よく考えるのじゃ、お前はまだ若い、まだ50も年は生きられる。わしの養子になれば、好きなだけうまいものが食えるぞ。いろんな服を着ておしゃれもできる。そして刀を差して、武士にもなれるぞ。あと50年は生きれるぞ」

ルドビゴは、この半三郎の目をしっかりと見つめて言いました。

「お役人様、キリストが下さる永遠の命を失って、この世で50年生きたところで何になりましょう。私はキリストとともに永遠のパライソなる天国に行きとうございます。あなたの方こそ、このイエス・キリストを信じて私と一緒にパライソなる天に参りましょう。」

まっすぐに自分を見つめるルドビゴの混じり気のない瞳に、半三郎は思わずも目をそらし何も答えられなくなりました。

自分を殺す権威を持っている役人に向かって、臆することなく、微笑みながら大胆に天国への招きを語った12際のルドビゴ茨木少年。
殺される側の12歳の少年の心には喜びと平安、天国への希望がありました。
一方、殺す側の権威を持っていた役人には、当時の権力者太閤秀吉への恐れと自分の立場を守るための保身にしか生きれない深い後悔がありました。